近年、日本でも「多様性」なる観念が盛んにマスメディアや公的機関、はては教育機関を通じてプロパガンダされるようになってきた。こうした言葉はかつての「国際化」や「男女共同参画」などと同様に、官製の、何か権力性を帯びたらしいうさん臭さを感じてしまう。
近年のいわゆる「リベラル」が古典的リベラリズムとは異なり、元来はマルクス・エンゲルス主義の支持者たちの80年後半からの転向の産物であり、決して真の政治的リベラリズムではないこと、またそれが一定の信念を人々に強いるグローバルな国際権力と化してきていることを、知識人層の中にも洞察する人が増えていること自体は喜ばしいことである。
ところですでにアリストテレスは『政治学』のなかで、人間社会の統合をもたらすものは「善悪正邪についての共通の知識」であることを喝破していた。それは反省的な知識以前の暗黙知の次元で成り立っている知識であり、「社会契約」など結ぶ以前に、家庭や地域など中間社会の次元からの人間の共同性の成立を説明する優れた見方であるといえよう。
それは「人間本性」自体の本質的な普遍性・共通性に基づく、「本性適合的認識」といえる。すべての社会に犯罪を犯すなど逸脱者ももちろん存在するが、社会成員の大多数が「逸脱」「犯罪」とある信念や行為を感じうるのは(またそれがあって社会は成立しているのであるが)そうした「本性適合的認識」があるゆえといえるだろう。
しかし、哲学者ハーバーマスの指摘するような、そうした自然な社会統合とは別種の「システム統合」と彼が呼ぶような、人為的な社会統合の作用力が今日では相応に強くなっているようにも思われる。それは行政と経済市場という二つの車の両輪のごとき官僚的権力の作用がもたらすものであり、行政的権力作用や貨幣という「制御メディア」のみならず、一定の観念をプロパガンダ、人々の「意識変革」のための手段として用いているようにも思われる。それが先の「国際化」であり、「男女共同参画」であり、「多様性」であるように思われる。
そうしたイデオロギー的観念の意図する目的、背後にある現実について考えると、今回は前2者については省略するが、「多様性」観念の目的は、個人の孤立化による社会の分断統治という点にあるのではないかと勘繰りたくなる。また背後にある現実は、社会の管理統制による、ある一定方向への操作と一様化にあるように思われる。
「みんな違ってみんないい」という多様性のスローガンは、金子みすずが用いたような創造のまなざしの下で説かれるのとは異なり、個人の主観的自己愛を確保することで社会的不満をガス抜きするとともに、個人を主観的自己愛の世界に閉塞させ、他者との連帯を不可能にさせ、その反動として孤立した個人の突発的な恐慌的・心理的暴発を生み、突然の通り魔的凶行や自殺・自傷行動などにもつながっているようにも思われる。
しかし、個体(inidividuum)の多様性、差異ということは論理的・存在論的にその普遍性・共通性ということを前提にしてしか不可能であるはずであり、個人や民族間のより目立ちうる差異の前提と根底には、その共通性・普遍性があるはずである。「自分の欲しないことを他人にも為さない」「自分の欲することは他人にも為す」という消極・積極の黄金律は、そうした人類の本性の普遍性を前提にしてしか成立しえないはずで、個別具体的な点で賢慮の徳を必要とするものの、そうした黄金律が原則として正しいことを人が洞察するのは、先の「本性適合的認識」が働いているためと思われる。
いまの「個の自由」を看板とし、かつての全体主義の恐怖の記憶を宣伝手段とするあらたなグローバル「リベラル」全体主義から自由になるためには、私たちはメディアや行政、教育機関をつうじてプロパガンダされるイデオロギーではなく、自分の「本性」の声に聴く必要があると思われる。また自分を主観的な自己愛のカプセルから解放して、他者と自己が共通の仲間であることを再認すること、そうして互いへの理解と敬意に基づく対話と連帯と内に社会問題について捉えなおすことが必要であるようにも思われる。