2014年3月17日月曜日

最近の日本の精神状況について


 最近、佐村河内氏の偽作事件と、小保方氏の「論文不正」問題がマスコミやインターネットの世界をにぎわせている。真相が両事件共に最終的に明らかになっていないので、これらについてコメントするべきではないが、ただ、現在の日本社会の精神的状況は相当に危ういものとなっていることは確かであろう。

 それはこれらの事件が起きてしまったということよりも、これらの事件からかいま見ることのできる、日本社会の精神的なあり方の問題である。全体として、マスコミ報道やネット上でのコメントに、相当に残酷な攻撃的精神の発露を感じる傾向がある。

 1980年代後半位から、日本社会への「自由主義的個人主義」の浸透により(またそれ以前から存在していたドイツ系の新カント派的相対主義を土壌としつつであろう)、日本社会は道徳的な変質をこうむり続けてきたように思うが、いまやそれが国のエリート層にまで由々しき影響を及ぼし、かつ一般社会にはかつてマックス・ピカートが大戦間期のドイツについて指摘した「無連関人」的メンタリティが浸透しているように思う。

 人間存在の様態が質料化し、社会的紐帯も弱まり、同時に強力なIT技術に支配された日本は、道徳的に退廃したエートスを、いわば魂の集合的な無意識部分にマグマのように抱えつつ、「ITファシズム」とでも呼ぶべき状況(このブログの最初の記事では「新ファシズム」と呼んだ)に陥っているように思う。そこに現れて来ているのは、他者に対する情け容赦のない攻撃性である。

  少なくとも、これは日本の精神的文化にとって、由々しき事態が生じていることであるのは間違いないだろう。真理への意志が、精神的文化の基底になければならないが、それがグロテスクな仕方で攻撃されているのだから。

現代日本で進行している事態…


人間が集団として倫理的に堕落し、その魂を悪しきものとするならば、どうなるであろうか。それは、その人間集団が理性を失い、自由を失うということに他ならないであろう。

 個人の「自由」への叫びとともに、欲望が肥大化し、理性による魂の秩序付けが不在となった状態が社会のうちで普遍化するならば、どうなるだろうか。当初は、それでも現代の「官僚制的個人主義」社会を脅かさない範囲内に個人のあり方が収まっていれば、見たところ社会全体に変化はないであろう。しかし、社会は内的に倫理的に変質し、基本的な安定性が次第に脅かされる可能性がある。

そうなると、まずは「自由」の質が主観的なものに変質し、客観的・公共的な自由はますます失われる可能性がある。そうした段階に至ると、公権力の個人に対する権力作用が増大し、個人は逆に次第に自由を失うに至るであろう。のみならず、そうした場面に至ると、欲望に飽いた個人は自己の主観的・客観的な「自由」をもてあまし、社会権力や公権力の強権的作用を支持し、自己をそれに心理的に同一化させようとするだろう。つまり個人の野放図な「自由」と欲望の追求は、残酷な全体主義国家を将来せざるを得ないのではないか。

 こうした事態が、まさに今の日本で進行しつつある自体でないことを祈るばかりである。