今日、教育の世界への心理主義的発想の浸透について論じられるようになってきている。例えば、少し古いところではアメリカの宗教学者R.N.ベラーらによる『心の習慣』がそれである。本書の論点の中心は、現代の英米リベラリズムへの共同体主義の観点からの批判という点にあり、その観点から、同じく共同体主義者A.マッキンタイアの『美徳なき時代』を援用しつつ、現代の「官僚制的個人主義」社会における「キャラクター」としての「セラピスト」の位置づけを論じるという文脈で、そうした心理主義批判がなされていると言えよう。
したがって、教育の世界への心理主義的発想の浸透という論点を理解するためには、その背後にある社会構造を理解せねばならないことを説いている点で、このベラーらの著作は優れたものと言えよう。
のみならず、実は、そこで問題になっているのは、日本ではいわゆる「価値観の多元化」などという観念でもって語られる、自由主義的個人主義の相対主義的な道徳観および人間観にあることを指摘せねばならないであろう。つまり、教育の世界への心理主義的発想の浸透、のみならず端的に言って《教育の心理化》ともいうべき事態が生じているのは、実は人間の成長の目的について公共的な仕方で語り、コンセンサスを見出すことが難しいという事態にも由来するように思う。のみならず、それを個人単位で各人が構想するための思想的な枠組みすら希薄化していることに由来するように思われる(人間の成熟すべき姿について知ることが出来ずして如何にして教育について考えようか)。
つまり、第一に、人間はこの世に生まれて、いかなる人間になるべきなのか、また人生の究極目的は何なのかという問題、第二に、人間の成長の究極目的に至るために必要な徳目とは何かという問題、それに関連してそうした成長の理想像を示す典型的人物とはどういう人間なのかという問題、第三に、究極目的に至るためにたどらねばならない道徳法則は何なのかという問題、こうした問題について公共的に論ずることが困難になっているし、個人的に各人がそうしたことについて構想するための思想的な枠組みがもはや非常に希薄になっていないだろうか。
今日、日本において大人が成熟するのが難しい社会が現出しているように思うが、それはそうした人間の成熟の枠組みが見出しにくいからであろうように思う。先日、いわゆる「イスラム原理主義組織」に日本人学生が参加しようとしていたという旨のニュースが報じられたが、ヨーロッパのみならず、日本においても、世俗主義的で相対主義的な文化と社会は(もちろん雇用の問題等もあろうが)、宗教的原理主義に向かう若者を生みつつあるのかもしれない。「原理主義」という理性の放棄に至るのではなく、理性を真の意味で十全に行使するために、逆説的ではあるが、信仰と理性の関係を再考する必要もあろう。