2025年4月6日日曜日

くだらない仮想白熱教室もどき…お許しを(ChatGPTにこの対話を打ち込んでみるとなかなか面白い結果が得られた)

 

仮想白熱教室

 

 

マ:マイ〇ル・サ〇デルです。「白熱教室」へようこそ。今回のテーマは人が備えるべき美徳についてだ。ではここで早速問題を提示したい。ホウ酸団子味の肉団子と、肉団子味のホウ酸団子では、有徳な人が食べるのはどちらだ。

 

学:あのう、僕はキリスト教徒でカトリックですが、有徳な人はどちらも食べないと思います。だって、肉団子味のホウ酸団子は食べたら毒ですし、ホウ酸団子味の肉団子は、結局臭くて食べられないでしょうから。

 

マ:なるほど、いい答えだ。だが君は私の哲学的な問題設定を台無しにしてくれた。ここで私が問うていたのは、食事のテロス、目的とは何であるのかという問題なのだ。では、功利主義者の君はどう思う?

 

学:功利主義の立場からいえば、なるべく多くの人が楽しい思いをするのが正しいと思います。ベンサムも立法の目的は「最大多数の最大幸福」だと言いましたから。だから有徳な人はきっと、自分を犠牲にして毒見役になって、両方食べてみるのではないでしょうか。J.S.ミルも、より高尚な快楽とは両方味わった人が分かるものだと言いましたし。そうすれば皆にとって楽しいことが分かると思います。もし、誰も犠牲になろうとしないのならば、くじ引きで犠牲者を決めたらよいのではないでしょうか。

 

マ:なるほど。「サバイバルロッタリー(生き残りのためのくじ引き)」を引かせるわけだな。ではその場合、少数の者が意に反して犠牲になる可能性が出てくる。この点について、カント的義務論者の君はどう思う?

 

学:カントは、道徳的に正しい行為をするには、皆の人間性を尊重して誰も単なる手段のように犠牲にしてはならないと言いました。だから自分のやりたいことが、皆がやってもその人の人間性が損なわれる犠牲者を生まないか、普遍化の出来ることをする人だけが有徳な人ではないでしょうか。だから、有徳な人は毒見役を作っていいとは思わないし、どちらの選択肢も人間性を尊重しているとは思えませんから、誰もどちらも食べないように有徳な人ならば薦めると考えるのではないでしょうか?

 

マ:なるほど。他者を「人間性」を備えた、単なる手段ではない目的自体として尊重し、自己の行為の方針が普遍化可能かチェックして、普遍化できる選択のみを有徳な人は選ぶという訳だ。しかし、そこには全員一律の選択を皆に強制する危険性が含まれていないか、リバタリアンチームの君たちはどう思う?

 

学:リバタリアンとしては、自分のものを第一に考えたいです。ロックも言うように、自分のものである身体をどうするのか、自分で決めたいし、それについて他人に干渉される筋合いはないのではないでしょうか。だから、身体に関わる食事について、何が有徳な行為なのかという問題を、他人が設定すること自体が誤っていると思います。本人が何を食べるのか、本人の選択に任せたらよいのではないでしょうか。

 

マ:なるほど。自己の所有物への権限を最も重要視するわけだ。しかし、それでは結局は問題解決を個人に丸投げして先送りしただけの単なる相対主義になってしまう可能性があるし、そもそも自分の身体は自分の所有物なのだろうか。そこでは、自己という意識が身体という物体を所有するという心身二元論が前提になっているが、この点で禅仏教徒の日本の君はどう思うか?

 

学:禅仏教では心と体は一体と考えます。キリスト教でも昔はそう考えたのではないでしょうか?だから、身体に対する自己決定という考えはナンセンスだと思います。「心頭滅却すば火もまた涼し」と戦国時代の僧は言葉を残したようですし、どちらを選んでも、その選択自体になりきってゆくのが、有徳な人のすることではないでしょうか。

 

マ:それは東洋ならではの興味深い視点だ。自然や運命に抗わずに順応してゆくというストア派にも通じる思想といえるだろうが、現代でいえば実存主義にも親近性があるのではないだろうか。この点、実存主義者のあなたはどう思うか?

 

学:サルトルは「実存は本質に先立つ」といいました。つまり私たちのその都度の選択が、私たち自身の存在を作り上げてゆくということです。だから、ホウ酸団子味の肉団子と、肉団子味のホウ酸団子のどちらを食べるべきかということは、予め決めることは無意味だと思います。どちらでもとにかく、その都度決断をすることが大事で、その選択の結果、まずくて吐き出したり、体調に異変を来したりしたとしても、それが今の私自身だということです。

 

マ:なるほど。しかしそれでは結局は正しい選択などはないことになるし、選択の結果生じる不幸に対して、まったく無責任なことにならないだろうか。この点、マルクス主義者の君はどう考える?

 

学:僕は、この「ホウ酸団子味の肉団子と肉団子味のホウ酸団子では、有徳な人が食べるのはどちらだ」という問い自体の、社会経済的背景を分析しないといけないと思います。というのも、この問い自体が、特定の社会階層の利害に由来しているかもしれないし、ジェンダー面でも偏りがあるかもしれないからです。だって、料理をするのは、家父長制社会では女性の役割だと決まっていますし、肉団子やホウ酸団子をより多く販売したいのは、資本主義企業の思惑でしょうから。

 

マ:つまり、この問いは、精肉業者や製薬会社の利権のために立てられた問であり、あくまでも女性だけに料理をさせようという性別役割分業を固定化するための問いだという訳だな。確かに興味深い視点ではあるが、私の問いの意図からはだいぶ離れてしまったようだ。私は、人間の持つべき美徳への問いを特定の階級的、ジェンダー的利害に還元しようとするマルクス主義には鋭さを感じても、結局それは「人はいかに生きるべきか」という人間にとって大切な問いに対する通路をふさいでしまうように思われる。この点、最初に答えてくれたカトリック信者の君はどう考えるか。

 

学:アリストテレスは「よく生きる」とは美徳をもって生きることであると考えたし、トマス・アクィナスは現世では賢慮の徳が、来世に向けては愛徳が大事だと説いています。そして、人間はその本性を完成して、神の至福に与るべきだとも言っています。ですから、現世で何を食べるかは、来世の至福に到るための手段の問題であって、味がおいしいのは食欲をそそり、食事をすすめるために大切ですし、食べること自体は栄養を適切に摂って身体の健康を維持するためですから、体に有害なものは食べるべきではありません。ですから、有徳な人はホウ酸団子味の肉団子も、肉団子味のホウ酸団子も食べることなく、美味で栄養分に富んだほかの食物を探すのではないでしょうか。

 

マ:全く私も君の意見に同感だ。君の見解には皆も反論の余地がないのではないかな。だがあえて聞いてみるが、福音派プロテスタントのあなたは、カトリックの彼の見解をどう思うか?

 

学:聖書にはイエス様の言葉として、「何を着るのか、何を食べるのか思い悩んではならない」とあります。しかし、これはホウ酸団子味の肉団子でも、肉団子味のホウ酸団子でもどちらを食べようか思い悩んではいけないという意味なのでしょうか。あるいは、イエス様は彼が食事の前に手を洗わないことを非難したファリサイ派の人に対して、外面の掟のみを尊重して、内面の清さを重視していない点を非難しています。だから、こうした問いを立てるときの意図、あるいは答えるときの意図が、清い心によるのか、いじわるな心によるのかが大切ですし、目先の食事にとらわれてイエス様に会うことを忘れてはいけないという点で、カトリックの彼には賛成です。

 

学:カトリックの僕も、君とはいい友達になれそうだね。

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