2015年9月20日日曜日

説明不足ではなかろうか

 かつて書いた「安保法制」に関する記事を、最近の私見に基づき、下のように訂正した。下のように書いて、4年くらい経過した2019年現在思うのは、「安保法制」はオバマ政権のいわば「消極的平和主義」に基づく、国際的な安全保障への日本の関与への要請ということが主要な背景だったのではないかと、素人としては思うことである。実際のその後の日本政府の政治的判断は、「いまのところは何とか大丈夫」といったところであろうか。トランプ政権の孤立主義は、(北朝鮮問題への対応など見る限り)オバマ政権よりもかえって平和主義のようでもあるが、今後の世界情勢からは依然として目は離せない。
     安保法制に対する中国の反応が意外なほど冷静らしい(靖国参拝などに敏感に反応するのに)。政治の素人である私はアーミテイジ/春原氏らの議論から、これは米中同盟を分断するためにアメリカにサービスしたいのだろうと理解していたが、しかし今年の五月に大規模な自民党の訪中団が派遣されたようだし、意外と中国の了解をすでに取り付けていて、米中同盟に日本が集団的自衛権を携えて加わるという話なのかとか、考えてしまう。

     いずれにせよ「敵」あっての安保法制なので、中東、アフリカ等への「後方支援」のための派兵、それに伴いイスラム過激派等を敵に回すリスクはついて回るように思う(それゆえ今後、アメリカ等からの要求の可能性を考えると、今回の安保法制はやはり北朝鮮包囲のための「抑止力」の確保という事では済まないのではないか)。したがって、当然、客観的に不正な戦争への後方支援のための派兵は認められないのは勿論、国連の集団安全保障内外の派兵でも、アフガン戦争のようにその始まりが誤っている場合もあるわけだし、日本特有の《ソフトパワー》を活かすべきという趣旨からも、慎重な政治的判断を求めたい。

     旧約聖書の「イザヤ書」では、紀元前8世紀に北東の大国アッシリアの侵略に脅かされた南ユダ王国のアハズ王が、アッシリアに対抗する名目での隣国の北イスラエル王国やシリアからのいわば集団的自衛権行使の申し出を断り、かえって(両国に侵攻されるなかで)大国アッシリアの救援を求めようとすることに対して、預言者イザヤが「落ち着いて静かにしていなさい」(イザヤ7:4)と(アハズ王を)諭す場面がある。つまり、一見迂遠な議論のようであるが、国内の道徳問題や宗教心の在り方が、国の足腰を強めたり弱めたりするという意見であろう。現在の安保問題も、「戦略的」見地をあれこれ考えることよりも、日本国内の国のあり方という足元をきちんとしておかないといけないのかもしれない。

     いずれにせよ、現政権の国民に対する説明は不足しているように思われる。というのか、きちんと説明すると政権支持者の支持を失うとか、不都合があるのかもしれない。いずれにせよ、安保法制の真相はマスコミ報道とはかなりずれたところにあるような気もする。

2015年9月12日土曜日

このまま流されたい?

 先日、生命倫理学を教えている看護学校の学生レポートを採点している中で、自分は脳死臓器移植に賛成だが、ドナーカードは持っていない、そこで国全体で「オプトアウト」(臓器提供への反対意思表示者のみドナー候補から外すという意思表示方式)を日本も採用すべきだとする学生の意見が目にとまった。

 私ぐらいの世代(?)の常識では、臓器提供のような重大な決定は、本人の熟慮と決断に基づく積極的意思表示を待ってはじめて許容されると思うのだが、こうした意見が出てくると、今の日本の現状をまた深く憂慮せざるを得ない。つまり、こうした意見の背後には、自分は責任を負ったり、主体的に決断したくはない、その為に色々と物事を考えたりしたくない、その代りに周囲に同調しながら場の「空気」に流されて生きたいという気持ちがあるのではなかろうか。

 感受性の鈍化、思考力の低下、責任意識の低下など、具体的な付随現象は複数挙げることが出来るだろうが、生きる目的とそのための倫理が公共的次元でかなり不分明になっている現代日本社会は、人間の存在様態の質料化を負の動力として、極めて危険な方向に進んでいるのではないかと憂慮せざるを得ない。 

 また、若者に関しては、閉塞感のある社会のなかでの彼らの「自己効力感」の低下が、外部の強力に見える力との自己同一化の心理を生み出しているのかもしれない。これは教育の喫緊の課題であるかもしれない。

2015年1月21日水曜日

憲法教育について

 私はいくつかの短大・四大で「憲法」授業を担当している。もとより、私は公法学会に属す憲法の専門家ではなく、法哲学上の自然法論の立場から、日本国憲法の問題に関心を持ってきた。

 すでに、当ブログの記事「新しい憲法の話」で、現憲法のはらむ問題についての私見を概括的に述べたし、最近は非専門家による鋭い著作(ホセ・ヨンパルト師や矢部宏治氏の著作など)が出版されてもいるので、現日本国憲法自身の問題ではなくて、ここでは若者に憲法を講ずる上で最近私が感じる問題点を指摘してみたい。

 私見では、戦後の日本には、自らが服すべきルールについて公共的な討議をし、その上でルールを決定し、それを遵守し、場合によっては現実との対応関係の中でそれを修正するという、自律的な「法の支配」、さらには「立憲主義」の考え方が本当には根づいていない。それゆえ、民間から、自分たちの国の憲法をどうより良きものにするのかという議論がほとんど出てこない。出てくるのは、いわゆる「保守」勢力の、上からの、権力主義的・復古主義的改憲論のみである。これは、突飛なようだが、学校教育の場で、生徒たちの自律性が養われていないということも、背後に事情として伏在しているようにも思われる。

 つまり、本来は、学校の校則・規則のたぐいは、生徒自身に議論させながら、何故、そのルールに服さねばならないのか理解するまでに、生徒の理性を開発することに意義があるように思われるのだが、そういった努力は充分にはなされていないのではないだろうか。理想的には、生徒自身が校則を立法・改変する権限を持つのが望ましいだろう。それがひいては、真の民主主義的な、立憲主義教育につながるように思う。

 ところが、最近の若者たちの中にみられる傾向は、強権的な権力に自己を心理的に同一化し、それに抗おうとする者を嘲笑する態度である。これは極めて危険な兆候であると言わざるを得ないが、こうした傾向が生じた背後の事情には、まず根本的には現代日本人の存在様態が一般に、老若男女、質料化し、欲望化・自己中心化し、非霊化しているという事情があろう。それはまた、広汎な、現実に対する感受性の鈍麻、思考の停止という事態の発生にもつながっているように思われる。加えて、そもそも真の、自律的な国民を養うという民主主義教育が行われなかったということも、あるいは関係しているのかもしれない。また、歴史教育の機能不全ということも考えられるだろう。

 憲法の授業で、私も平和主義について語る。しかし、その際に、学生が予断として持っているのは、いわゆる「護憲」派的な、平和主義の想念か、あるいは逆に一切の平和についての言説を頭から嘲笑してかかる「ネット右翼」的な態度か、いずれかであるように思う。いずれも、プロパガンダの言説を自分の考えと思い込み、自分自身の思考をせず、問題の現実的な解決について考えていない点で同じである。それゆえ、私は、学生に、雑誌やネット、漫画などで読んだことはすべてカッコに入れて、自分自身の頭で考えること、また、「それが自分の身に本当に起きたら」どうなるか、現実的に考えることを常に求め続けている。

 最近、「イスラム国」は日本を「十字軍」の仲間と捉え、日本人の人質の身代金を政府に要求しているという報道がなされている。欧米諸国との「集団的自衛権」の行使、日本製兵器及びその部品等の国外輸出を進めるならば、こうした西洋の世俗主義に敵対するイスラム原理主義勢力と衝突する可能性が出てくることは目に見えているわけだが、早速、安倍首相のイスラエル訪問とともにそれが露わになった形である。

 ひるがえって日本が進むべきであるのは、西洋諸国と一線を画す独自の平和主義路線であることは言うまでもない。西洋諸国の行動を、正義という客観的尺度で評価しつつ、同時に、苦難の状況にある諸国への同情を持って日本の対応を考えてゆくことが、世界史の流れの中で、日本の国際的評価を最終的に高めてゆくことになるだろう。

 そのための大前提として、本来は、日本がサンフランシスコ講和条約締結後に、米国の影響を排して、国民的な議論と法学者の精緻な議論を重ねたうえで、独自の平和憲法を新たに制定しておくべきだった、また、それに合わせて、憲法9条も、嘘のない、きわめて限定的な専守防衛と、平和への努力、国際協調を謳うものへと改正すべきであった(詳しくは拙論「新しい憲法の話」参照)というのが持論であるが、なかなか学生諸君はこれを理解してくれているであろうか。

 また、そのために、憲法学の世界も、方法二元論を捨て、法学が賢慮の学である以上、価値判断に関わらざるを得ないことを率直に認めて、いかにまともな価値判断をするのかを原理的・方法論的に考察し、またそれに基づき憲法の本来あるべき姿を考えてゆく必要があるのではなかろうか。それは、まさしく、日本の法学界でタブーとなり、また殆ど正しく理解されていない自然法論を復権することになるだろう。