終末(eschaton)とは、人間の歴史の終わりのことであり、その最後に待ち受けている何ものかのことであろう。それは、歴史の彼方にあるがゆえに、哲学者カントも言うように(『万物の終焉』)人間の有限な理性によっては直接には思考不能な何ものかであろう。ユダヤ=キリスト教には、こうした終末の観念が、あくまで神の啓示として(つまり人間理性による完全な知解可能なものとしてではなく)前提され、イザヤ書やダニエル書の終末時の「死者の復活」の信念として表れている。
ところで、こうした本来の宗教的な終末論は、あくまで有限な人間の歴史の「彼方」の話をしているのであり、歴史の「中」において終末が実現すると説いているのではない。確かに所謂「現在の終末論」というのがあり、終末は直線的な未来の問題としてではなく、いわば垂直の今における神との関係において、今、実現しているという見方もある。それがキリスト教神学でいう神の子の受肉論となってくる。
しかしそこでは有限な人間的事象、すなわち経済や社会、文化がそれ自体で、しかも歴史の中において「終末」を迎えることがあると説いている訳ではない。あくまで神という超越者と人間との相互関係の話をしているだけである。したがって、人間の経済や社会、文化は、あくまで有限な歴史的時間の中で、漸進的な発展を遂げることが出来るだけである。その意味で、それらはすべて人間の創意工夫により改良されて漸進的な進歩をすることしか可能ではないのである。たとい、天才的な個人の創造的で「革命的」な発見や発明があったとしても。
しかし、歴史の中での階級の廃絶や、「家父長制家族」(エンゲルス)、ジェンダー・セックスの区別の廃絶を説くイデオロギーが、歴史上、一定の人々に強く訴え、また今日でも支持者がいるのはなぜであろうか。それは途上国では現状の厳しさ故であるかもしれないし、先進国では管理された社会の閉塞感ゆえであるのかもしれない。しかし現実を成立させている人間と事物の「本性」を無視した、ラディカルな現状変革の試みは、常に挫折してきたと歴史が証明してきているように思う。人間の「本性」に反した状態で、文明が存続・発展することはできないのではないだろうか。
若者は、そうしたイデオロギーを「進歩的」と感じてきたのであろうが、実際の進歩は多数人の地道な努力による漸進的な改善の成果でしかないように思う。今日の教育の世界において、ポストモダン的で終末論的なイデオロギーが浸透しているようであるが、その点には大変な危惧の念を覚える。
むしろ社会の将来に対する責任感をいかに養うかが、教育の一つの重要課題であるように思う。それは旧世代を否定することで「自由」で「開放的」な気分を味わうことではなく(まして「進歩的」と誤解することでなく)、面倒な重荷を背負うことで初めて見えてくる、真に充実した境地をいかに若者に教えるかということであるのかもしれない。
2019年3月24日日曜日
「自然」破壊について
随分久しぶりに、このブログを更新している。過去に書いたものを読み返すと、自分の最近の政治的なスタンスは随分変化していることに気づく(誤解を恐れずに言えばより「保守的」になった)。今回はその点についてではなくて、「自然」破壊について考えたい。
「自然」(nature)という観念は、多義的に用いられることが多い。しかし「自然破壊」と言えば、いわゆる「自然環境」の破壊を意味し、地球温暖化や生態系の破壊などについての言説とともに語られるといえるだろう。
しかし、人間という「自然」について考えられることは、比較的にまれではなかろうか。人間という「自然」(nature)とはすなわち、人間本性(human nature)のことである。私は今日、人間という自然、人間本性の破壊が進んでいるのではないかと危惧している者である。
ここでいう「自然」あるいは「本性」とは何であろうか。それは哲学的に言えば、事物の本性、形相である。まさしく何ものかを何もかたらしめているもの、その「何性」(quidditas,suchness)ともいえる。それは人間知性が、事物について考察する際に、知的に理解する何ものかである。したがって、単に物理的・生物学的な事物の組成を言うのではなく、「自然」「本性」自体は形而上学的な存在である。
形而上学的な「存在」を理解するためには、存在とはすなわち単純に感覚的に捉えられている所謂物理的存在のことであるという存在理解をより柔軟なものにする必要があるのであるが、その点についてはここでは詳説しない。
人間が科学技術により操作するのは、事物の外的特性であるが、その操作は今日ではしばしば事物の内的「本性」にまで及び初めているのではないか。そのことは、たとえば今日の産業・経済社会の発展の中で、高度な生命技術が人間の出生や死の場面に影響を及ぼしつつあることや、経済の「成長」のために、消費の市場を拡大するために(そのように見えてしまうが)「多様性」プロパガンダがマスメディアを通じて(あるいは行政や教育界も肩入れして)行われている場面などに典型的に表れているように思う。
現代の経済社会は無限の「成長」を求める、ある種の宗教的情熱を帯びているともいえるかもしれないが、そこでは生産面では厳しい規律が求められると同時に、消費面では益々の多くの恣意的な「自由」の拡大が求められ、人はあたかも勤務時間と余暇との間で「ジキルとハイド」のごとく引き裂かれようとする、不安定な自我を抱え、またそれが教育の世界や若者の知的・心的発達にも影響を及ぼし、アンバランスな危うさをもたらしているようにも思われる。
また、何よりも、人生の目的、意義の見えにくい社会を構造的に生み出し、精神的・宗教的な不安を生み出しながらも、その不安を抑圧しているようにも思われる(それがいびつな仕方で突発的に爆発したのがかつてのオウム事件ともいえるだろう)。
人間の「霊性」への希求を掘り起こし、経済は手段であり、自己目的ではないこと、人生の目的はあくまで霊性的な世界において具体的に見出されてゆくことが、再発見される必要があるように思う。
かつてヨハネ・パウロ2世教皇は、19世紀末の初のカトリック社会回勅『新しい事柄』から100年目にあたる1991年『百周年』回勅を公布し、今日、自然環境の破壊を嘆く人は多いが、「人間環境」の破壊を問題にする「ヒューマン・エコロジー」への着目は少ないことに警鐘を鳴らしていた。全く持って慧眼であったと言えるだろう。
「ヒューマン・エコロジー」が問題化している背景には、先に述べた、今日の人間という「自然本性」の破壊があるように思う。「無縁社会」「格差社会」などの標語で、あるいは歪なナショナリズムの噴出という不幸な仕方で、「グローバリゼーション」時代のリベラリズムがもたらしたものへの批判はさまざまになされれているが、人間というものの本質構造(本性)を無視した経済社会や文化は決して人を幸せにはしないことが、自覚されねばならないように思う。これがまさしく、人間社会の「自然法」(naural law)あるいは、存在するものの総体を支配する「永遠法」(eternal law)の問題である。エコロジーの問題は、いわゆる「自然界」のみならず、人間自身を含んだ「永遠法」の問題であるともいえるのではないだろうか。
「自然」(nature)という観念は、多義的に用いられることが多い。しかし「自然破壊」と言えば、いわゆる「自然環境」の破壊を意味し、地球温暖化や生態系の破壊などについての言説とともに語られるといえるだろう。
しかし、人間という「自然」について考えられることは、比較的にまれではなかろうか。人間という「自然」(nature)とはすなわち、人間本性(human nature)のことである。私は今日、人間という自然、人間本性の破壊が進んでいるのではないかと危惧している者である。
ここでいう「自然」あるいは「本性」とは何であろうか。それは哲学的に言えば、事物の本性、形相である。まさしく何ものかを何もかたらしめているもの、その「何性」(quidditas,suchness)ともいえる。それは人間知性が、事物について考察する際に、知的に理解する何ものかである。したがって、単に物理的・生物学的な事物の組成を言うのではなく、「自然」「本性」自体は形而上学的な存在である。
形而上学的な「存在」を理解するためには、存在とはすなわち単純に感覚的に捉えられている所謂物理的存在のことであるという存在理解をより柔軟なものにする必要があるのであるが、その点についてはここでは詳説しない。
人間が科学技術により操作するのは、事物の外的特性であるが、その操作は今日ではしばしば事物の内的「本性」にまで及び初めているのではないか。そのことは、たとえば今日の産業・経済社会の発展の中で、高度な生命技術が人間の出生や死の場面に影響を及ぼしつつあることや、経済の「成長」のために、消費の市場を拡大するために(そのように見えてしまうが)「多様性」プロパガンダがマスメディアを通じて(あるいは行政や教育界も肩入れして)行われている場面などに典型的に表れているように思う。
現代の経済社会は無限の「成長」を求める、ある種の宗教的情熱を帯びているともいえるかもしれないが、そこでは生産面では厳しい規律が求められると同時に、消費面では益々の多くの恣意的な「自由」の拡大が求められ、人はあたかも勤務時間と余暇との間で「ジキルとハイド」のごとく引き裂かれようとする、不安定な自我を抱え、またそれが教育の世界や若者の知的・心的発達にも影響を及ぼし、アンバランスな危うさをもたらしているようにも思われる。
また、何よりも、人生の目的、意義の見えにくい社会を構造的に生み出し、精神的・宗教的な不安を生み出しながらも、その不安を抑圧しているようにも思われる(それがいびつな仕方で突発的に爆発したのがかつてのオウム事件ともいえるだろう)。
人間の「霊性」への希求を掘り起こし、経済は手段であり、自己目的ではないこと、人生の目的はあくまで霊性的な世界において具体的に見出されてゆくことが、再発見される必要があるように思う。
かつてヨハネ・パウロ2世教皇は、19世紀末の初のカトリック社会回勅『新しい事柄』から100年目にあたる1991年『百周年』回勅を公布し、今日、自然環境の破壊を嘆く人は多いが、「人間環境」の破壊を問題にする「ヒューマン・エコロジー」への着目は少ないことに警鐘を鳴らしていた。全く持って慧眼であったと言えるだろう。
「ヒューマン・エコロジー」が問題化している背景には、先に述べた、今日の人間という「自然本性」の破壊があるように思う。「無縁社会」「格差社会」などの標語で、あるいは歪なナショナリズムの噴出という不幸な仕方で、「グローバリゼーション」時代のリベラリズムがもたらしたものへの批判はさまざまになされれているが、人間というものの本質構造(本性)を無視した経済社会や文化は決して人を幸せにはしないことが、自覚されねばならないように思う。これがまさしく、人間社会の「自然法」(naural law)あるいは、存在するものの総体を支配する「永遠法」(eternal law)の問題である。エコロジーの問題は、いわゆる「自然界」のみならず、人間自身を含んだ「永遠法」の問題であるともいえるのではないだろうか。
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