随分久しぶりに、このブログを更新している。過去に書いたものを読み返すと、自分の最近の政治的なスタンスは随分変化していることに気づく(誤解を恐れずに言えばより「保守的」になった)。今回はその点についてではなくて、「自然」破壊について考えたい。
「自然」(nature)という観念は、多義的に用いられることが多い。しかし「自然破壊」と言えば、いわゆる「自然環境」の破壊を意味し、地球温暖化や生態系の破壊などについての言説とともに語られるといえるだろう。
しかし、人間という「自然」について考えられることは、比較的にまれではなかろうか。人間という「自然」(nature)とはすなわち、人間本性(human nature)のことである。私は今日、人間という自然、人間本性の破壊が進んでいるのではないかと危惧している者である。
ここでいう「自然」あるいは「本性」とは何であろうか。それは哲学的に言えば、事物の本性、形相である。まさしく何ものかを何もかたらしめているもの、その「何性」(quidditas,suchness)ともいえる。それは人間知性が、事物について考察する際に、知的に理解する何ものかである。したがって、単に物理的・生物学的な事物の組成を言うのではなく、「自然」「本性」自体は形而上学的な存在である。
形而上学的な「存在」を理解するためには、存在とはすなわち単純に感覚的に捉えられている所謂物理的存在のことであるという存在理解をより柔軟なものにする必要があるのであるが、その点についてはここでは詳説しない。
人間が科学技術により操作するのは、事物の外的特性であるが、その操作は今日ではしばしば事物の内的「本性」にまで及び初めているのではないか。そのことは、たとえば今日の産業・経済社会の発展の中で、高度な生命技術が人間の出生や死の場面に影響を及ぼしつつあることや、経済の「成長」のために、消費の市場を拡大するために(そのように見えてしまうが)「多様性」プロパガンダがマスメディアを通じて(あるいは行政や教育界も肩入れして)行われている場面などに典型的に表れているように思う。
現代の経済社会は無限の「成長」を求める、ある種の宗教的情熱を帯びているともいえるかもしれないが、そこでは生産面では厳しい規律が求められると同時に、消費面では益々の多くの恣意的な「自由」の拡大が求められ、人はあたかも勤務時間と余暇との間で「ジキルとハイド」のごとく引き裂かれようとする、不安定な自我を抱え、またそれが教育の世界や若者の知的・心的発達にも影響を及ぼし、アンバランスな危うさをもたらしているようにも思われる。
また、何よりも、人生の目的、意義の見えにくい社会を構造的に生み出し、精神的・宗教的な不安を生み出しながらも、その不安を抑圧しているようにも思われる(それがいびつな仕方で突発的に爆発したのがかつてのオウム事件ともいえるだろう)。
人間の「霊性」への希求を掘り起こし、経済は手段であり、自己目的ではないこと、人生の目的はあくまで霊性的な世界において具体的に見出されてゆくことが、再発見される必要があるように思う。
かつてヨハネ・パウロ2世教皇は、19世紀末の初のカトリック社会回勅『新しい事柄』から100年目にあたる1991年『百周年』回勅を公布し、今日、自然環境の破壊を嘆く人は多いが、「人間環境」の破壊を問題にする「ヒューマン・エコロジー」への着目は少ないことに警鐘を鳴らしていた。全く持って慧眼であったと言えるだろう。
「ヒューマン・エコロジー」が問題化している背景には、先に述べた、今日の人間という「自然本性」の破壊があるように思う。「無縁社会」「格差社会」などの標語で、あるいは歪なナショナリズムの噴出という不幸な仕方で、「グローバリゼーション」時代のリベラリズムがもたらしたものへの批判はさまざまになされれているが、人間というものの本質構造(本性)を無視した経済社会や文化は決して人を幸せにはしないことが、自覚されねばならないように思う。これがまさしく、人間社会の「自然法」(naural law)あるいは、存在するものの総体を支配する「永遠法」(eternal law)の問題である。エコロジーの問題は、いわゆる「自然界」のみならず、人間自身を含んだ「永遠法」の問題であるともいえるのではないだろうか。
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