2019年3月24日日曜日

終末論的イデオロギーについて

 終末(eschaton)とは、人間の歴史の終わりのことであり、その最後に待ち受けている何ものかのことであろう。それは、歴史の彼方にあるがゆえに、哲学者カントも言うように(『万物の終焉』)人間の有限な理性によっては直接には思考不能な何ものかであろう。ユダヤ=キリスト教には、こうした終末の観念が、あくまで神の啓示として(つまり人間理性による完全な知解可能なものとしてではなく)前提され、イザヤ書やダニエル書の終末時の「死者の復活」の信念として表れている。
 
 ところで、こうした本来の宗教的な終末論は、あくまで有限な人間の歴史の「彼方」の話をしているのであり、歴史の「中」において終末が実現すると説いているのではない。確かに所謂「現在の終末論」というのがあり、終末は直線的な未来の問題としてではなく、いわば垂直の今における神との関係において、今、実現しているという見方もある。それがキリスト教神学でいう神の子の受肉論となってくる。

 しかしそこでは有限な人間的事象、すなわち経済や社会、文化がそれ自体で、しかも歴史の中において「終末」を迎えることがあると説いている訳ではない。あくまで神という超越者と人間との相互関係の話をしているだけである。したがって、人間の経済や社会、文化は、あくまで有限な歴史的時間の中で、漸進的な発展を遂げることが出来るだけである。その意味で、それらはすべて人間の創意工夫により改良されて漸進的な進歩をすることしか可能ではないのである。たとい、天才的な個人の創造的で「革命的」な発見や発明があったとしても。

 しかし、歴史の中での階級の廃絶や、「家父長制家族」(エンゲルス)、ジェンダー・セックスの区別の廃絶を説くイデオロギーが、歴史上、一定の人々に強く訴え、また今日でも支持者がいるのはなぜであろうか。それは途上国では現状の厳しさ故であるかもしれないし、先進国では管理された社会の閉塞感ゆえであるのかもしれない。しかし現実を成立させている人間と事物の「本性」を無視した、ラディカルな現状変革の試みは、常に挫折してきたと歴史が証明してきているように思う。人間の「本性」に反した状態で、文明が存続・発展することはできないのではないだろうか。

 若者は、そうしたイデオロギーを「進歩的」と感じてきたのであろうが、実際の進歩は多数人の地道な努力による漸進的な改善の成果でしかないように思う。今日の教育の世界において、ポストモダン的で終末論的なイデオロギーが浸透しているようであるが、その点には大変な危惧の念を覚える。

 むしろ社会の将来に対する責任感をいかに養うかが、教育の一つの重要課題であるように思う。それは旧世代を否定することで「自由」で「開放的」な気分を味わうことではなく(まして「進歩的」と誤解することでなく)、面倒な重荷を背負うことで初めて見えてくる、真に充実した境地をいかに若者に教えるかということであるのかもしれない。


 

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