2014年2月27日木曜日

崩壊のきざし?


「そして、社会がその成員の集団的な人格崩壊をまったく自覚していない、ということが現在の危機の最大の悲劇なのです…。」(辺見庸『しのびよる破局』より)

 2009年であったか、NHKETVで放送された辺見庸氏の講演を聞いて、今の日本のマスコミに登場する文化人にも状況を的確にとらえている人がいるものだと思った思い出がある。その後、番組中で「予言」されていたように東日本大震災の悲劇が到来してしまった。

 辺見氏の著書『しのびよる破局』の論旨は、小生のブログとも通じるものがあるように思うが、(面識もない中で僭越ながら評させていただくならば)問題のすべての原因を資本主義システムの問題に帰着させる傾向があるように感じる点には少しだけ違和感もある。しかし、まず現代日本社会を価値観の崩壊と「失見当識」にあるものと捉えたうえで(それは拙論の立場からさしあたり簡単に言うことが許されるなら公共的な次元での普遍的倫理の不分明化と個々人の魂における宗教の不在ということに帰着させようが)、悲惨を体よく隠蔽する「コーティング」という概念の提示とか、資本主義システムを人間を病ませつつも健全な者としてふるまうよう強制するシステムと捉えるなど、多くの鋭い洞察がみられるのも確かである。

 氏の説かれるように、ますます我々は人間らしい心を失いつつあるように感じる。それもひょっとすると、非常に不気味なほど音を立てて壊れつつあるのかとも思う。

「人間はどこにいる」


  古代ギリシアのキニク派の哲学者ディオゲネスは白昼、ランプを持って広場を「人間はどこにいる」と尋ねまわったエピソードで知られているが、まさしく現代の日本において同じ行動をする「ディオゲネス」がいても不思議ではないように思う。

 人間で「ある」とは、人間として生まれた以上、事実である(Dasein=事実存在)であるが、同時に、人間で「ある」こと、あるいは人間に「なる」ことは人間にとって課題である(Sosein=理想としての存在)。つまり人間に「なる」とは、自然的に人間として母の胎内から生まれた者が、他者の助けとしての教育と自らの努力によって、過去の伝統と対話しながら、その理性の能力でもって有徳な、善い存在になることであり、そうして初めて真の意味で「人間である」ことが可能であるのでなかろうか。そしてそれは人の一生の課題であると言えよう。

 翻って今日、日本で、自己の魂のあり方の問題としての有徳さについて、どう考えたらよいだろうか。これは以前に書いてように、難しい問題である。「有徳さ」について思考するには、徳が目指す目的、すなわち「善」が明らかにならねばならず、しかも諸々の個別的な「善」が究極目的とするところの「最高善」について明らかにされねばならない(さもないと徳論の全体が中途半端なものとなるだろう)。これは実は、同時に、現世の政治的・社会的共同体のあるべき姿についての教説と、人生の究極目的に関わる宗教の次元、およびその共同体的側面(キリスト教でいう教会論)とを思考することにつながるのだが、そうしたことを公共的な次元で考えることは、(超越的・宗教的次元に関しては)現代の日本では難しいであろう。

現代日本社会の事実の次元では、社会的な生産や流通の職業世界での厳格な規律と、個人の私的生活の消費の場面でのモラルの破壊の傾向が同時に現れ(両者は経済の成長に関わっている)、少しずつ前者の側を侵食しつつあるように思われる(例えば最近の巨額の着服事件などに現れているように思う)。そうした中でも友情や愛情など、人間の本来持つ自然な心の発現が完全に失われるわけではないけれども、それがこうした社会の構造により発現しにくくなったり、ゆがめられたりする傾向があるかもしれない。また、そうした社会の中にある人間が、そもそも何を人生の最終目的として生きるのか不分明である、「ニヒリズム」が生じているように思う。

 そうした中で、各人の自己の「魂」のあり方が問題にされないし、それに伴い一般に人の理性の能力が弱体化し、物事を自分の心で感受したり、自分の頭で考えたりする力が弱くなってきているようにさえ思う。そこではもはや、人間を動物から区別する「理性的霊魂」の存在が危ういものとなりつつあるように思われる(「種差別」?の批判に抗してこう主張したい)。

 これはもはや、人間の世界であるのか、だんだん危ういものとなっていると感じるのは私だけであろうか。インターネット上の無責任な言論などを見ると相当に危ない状況になっているように思うし、街の中で肌で感じるものから察しても、危機感はぬぐえない。魂の危機の時代に、せめて祈りを通じて自己と世間が聖化されることを願うばかりであるが、同時に私たち各人が自己の「魂」の存在を問題にし、人生の究極目的を問題にするような気風が必要であるように思う。それはどうしても何かの仕方で各人が「宗教」に関わることにならざるを得ないのではなかろうか。

かつての「国家神道」に戻るのでもなく、公共的な次元で宗教心をいかに問題にしうるのか、難問である。勿論、宗教に国家が積極的な関与をしてはならず、謙抑的態度を取らねばならないのは、憲法上も社会哲学的にも言うまでもないので、(国家ではない)「社会」の側に存在する宗教心がどう活性化するのかが問題となろう。そこでは、キリスト教や仏教等の伝統宗教が、いかに現代日本社会に対して強い問題意識を持ちながら、適切な視角から関わってゆくかが鍵になるように思う。哲学者の西谷啓二はかつて「現代における宗教の不在、宗教における現代の不在」を説いたそうだが、まさに至言であろう。

中間社会の不分明化


 最近、またしても青年が自動車で群衆の中に突入する事件が発生した。思うに、こうした事件は現在の日本社会の基本的な構造の抱える問題に変化のない限り、他でも起こりうるだろう。日本社会の基本的な構造の抱える問題とは、1980年代以降のリベラリズムの浸透に伴う、「中間社会」(国家と個人の間にあり諸社会のこと)の紐帯の衰退、ないしは不分明化である(特に「雇用の流動化」の影響が大きいのは言うまでもない)。すなわち、家族をはじめ、学校、会社、地域その他におけるコミュニティ感覚の希薄化である。これは近年、「無縁社会」というNHKの造語を用いつつ問題視されるようになってもいる。

 個人の「自己」が帰属する場を見出し、安定感を得ることが、個人の成長には不可欠であると思うが、自由主義的個人主義一色に塗りつぶされた世界では、個人はそうした場を見出すのがますます難しくなりつつある。それは個人が自己を限定し、社会化する場を見出すことが難しくなっていることでもある。そこでインターネットの仮想現実の世界で自我を肥大化させつつ、国家という権力的共同体に自己を同一化しようとする「ネット右翼」が登場することになる。

 さらに、個人はもはや自己の生きる場を見出し得ないのみならず、自己の生きる指針、倫理もリベラリズムの世界であいまいなものとなっているかも知れない(これは時々学生のレポートなどから感じることである)。そもそも倫理とは、超越者や他者・共同体との人格の関係のうちにしか、十全な仕方で成立しえないように思う。またそうした関係を抜きには、「よき生」の構想や、さらには宗教を考えることはできないであろう。現代の自由主義的個人主義は消極的自由を個人に与えつつも、積極的自由の基盤になるそうした関係を作り上げる「物語」を個人に与ええていないように思う。

 そうした生きる意味の不分明化した「ニヒリズム」、道徳的相対主義の世界では、生産と消費の拡大を追求し続ける自己目的的な産業・消費社会の動向とも相まって、個人の魂のあり方も質料化し、アモラルな、欲望を方向づける導きを失ったものとなるのではないだろうか。そうした魂においては、魂の理性的部分は弱化すると共に欲望的部分が肥大化し、魂の秩序の転倒が生じ、もはや自己がどこに向かうべきか、合理的な方向付けがますます難しくなってゆく(実は哲学や宗教なしにはそうした魂の方向付けはそもそもなしえないのだけれども)。プラトンが説く、魂の御者(理性)の手綱が失われてしまっているのである。

加えて、マックス・ピカートの説くような、現代の「無連関」世界においては、そうした魂は、自己を何か輪郭のはっきりした権力的なものに同一化しようとするか(『我々自身の中のヒトラー』)、無連関な世界の中で、孤独な爆発を起こすかであるように思う。つまり、個人の魂の質料化と先の中間社会の喪失とが相まって、最近の「ネット右翼」のナショナリズムや、群衆の中での突発的行動が生じているように思えてならない。

 翻って問題の解決のためには、もう一度、「人間とは何か」、すなわち人間本性を見つめ直し、人間は個的人格であると同時に共同体的存在であり、かつそうした本性に由来する客観的な倫理の世界を生きるものであることを再確認する必要があるように思う。個人や法人の自由と市場での競争を通じての経済の活性化を説くだけでは、個人の倫理や様々の中間社会の共同体的意義、またそうした中間社会や国家に課せられる倫理を見失うのは間違いない。現在の日本社会に生じている動きは、「官僚制的個人主義」社会としての、自由主義的個人主義社会の安定性をも脅かしつつあるのも、間違いないだろう。

 また、そもそも1980年代以降、アメリカ発のリベラリズムが日本社会に浸透していったのは、単にアメリカの政治的・経済的・文化的「外圧」によるのみならず、日本社会の古い、おそらく大戦前後から連続している、共同体的なもののあり方に対する一般の嫌悪感があったのも確かであろうし、また、マルクス主義に絶望した世代が代替イデオロギーとしての自由主義的個人主義に飛びついた、という事情もあるであろう。いずれにせよ、個人を質料的な「個体」(individuum)ではなく、形相的な「人格」(persona)として正しく捉える中で、共同体の望ましい在り方を再考することが、リベラリズムを超えて「中間社会」の復興のためには必要であろう。

 そのための具体的方策は、誠に難しいだろう。おそらく、現代日本社会の「ほころんだ」部分が模索のための手掛かりを与えてくれそうである。以前、二度ばかり東北の被災地でのボランティア活動に参加したが、「官僚制的個人主義」社会システムのほころんだところでは、かえって人間同士の連帯や、超越者との関係という霊性を見出しやすいのかもしれない。

2014年2月16日日曜日

「ヒューマン・エコロジー」について


  ローマ教皇が社会問題について発言した「社会回勅」は、レオ13世により1891年に公布された『新しい(レールム・)事柄(ノヴァールム)』から、2009年にベネディクト16世により公布された『真理に根ざした愛』まで11ほど存在するが(数え方により若干変動するが)、その中でも1991年に東側世界の崩壊を受けてヨハネ・パウロ2世により公布された『百周年』回勅は重要な文書であると思う。

 『百周年』回勅は、19世紀の資本主義社会の矛盾と社会・共産主義という対案の抱える問題点を指摘するために『新しい事柄』回勅が1891年に公布されてからちょうど百年になることを記念して公布されてもいるが、何よりも、1989年以降の東側体制の崩壊を受けての公布という意図があるように思う。

 全体として、『百周年』回勅は、すでの『新しい事柄』で私的所有権の否定が批判され、同時に私的所有権の絶対性・排他性も批判され、いわば「私有公用」とも言うべき「第三の道」が共同善の原理として打ち出されたことの正しさが、東側世界の崩壊という歴史的事態により確認されたこと、またその反面、今後強まりうる自由主義・資本主義イデオロギーのいわば一人勝ち的な事態に対して、改めて共同善の観点から警鐘を鳴らすという趣旨であるように思う。19世紀末にカトリック教会が社会原理として述べた共同善、補完性、連帯性、人格性の四原理は、20世紀を通じてその正しさを歴史的に証明したということができるだろう。

 人格性原理と共同善原理は、それぞれ社会という現実を構成する、対極にある2原理で、どちらをも欠きえない。各人の人格の尊厳は絶対的であり、人格の自由から、社会的な次元での自由も基礎づけられるし、諸々の個人権も各人の人格の完成という目的から導き出される。しかし、人間は単に個人として生きるのみではなく、家族をはじめ、様々の中間団体から国家、国際共同体に至るまで、共同体のうちに生きるので、個々人の善とは区別される共同善も個々の人格の対極にある実在として認められねばならない。

個人は、共同体のうちで、自らの位置・役割を得て社会化されることで自己を完成しうるし、豊かにしうる。そのプロセスでは個人は、自己一身の善のみではなく、共同善というより多くの人の善への貢献を通じてかえって自己実現するという修練が必要なものと考えられる(またこれは法人についても言え、その場合は企業の社会的責任の問題などになる)。また、共同善は、後述するように、個人がそのうちで生きる制度と「環境」でもあり、個人の生活を助けるべきものである。

 補完性原理と連帯性原理は、人格性原理と共同善原理から必然的に要請されるもので、国家をはじめ、各共同体は個人や下位共同体から自分でなしうる課題・権限を奪ってはならず、かえって個人や下位共同体自身の自発的努力や創意を援助するような立場に立たねばならないというのが補完性原理、「一人は万人のために、万人は一人のために」という標語でも言い表され、各人・各共同体の共同善実現のための連帯を説くのが連帯性原理である。

 こうした原理からすれば、私的所有権は人格的自由から由来する奪いえないもので、社会主義・共産主義体制は人格性原理に反したものとなる。そうした社会・経済体制はまた個々人の創意をそぎ、官僚国家化するので硬直した体制となりがちでもある。しかし逆に、個々人間の冷酷な競争社会・無縁社会は連帯性原理に反するし、各人の利己心のみにより成り立つ経済体制は共同善原理に反するので、新自由主義体制も認められないことになる。結論としては、各人の私的所有権を尊重しながら、これを創意工夫を持って(多元的な共同体の)共同善のために役立てるような社会・経済体制のみが、カトリック社会回勅の立場からは是認されることになろう。これがカトリック社会論が説いた、自由主義と社会・共産主義の「第三の道」である。

 ここまでは、カトリック社会論の一般的説明であるが、『百周年』回勅で興味深いと私が思うのは、第4章「私的所有と物的財の普遍的用途」として共同善原理について説かれる箇所で、現代の先進資本主義・自由主義諸国の消費主義文化が批判されることに接続して、そうした国々では自然環境に対する「エコロジー」の意識は不十分ながら相応の高まりを見せているに関わらず、人間の生きる道徳環境すなわち「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」への意識が非常に希薄であるという批判である(「ヒューマン・エコロジー」という概念は2009年の『真理に根ざした愛』回勅でも再びとり上げられている)。

 人間は、自然界の一員としても、道徳的存在として人間社会の一員としても、環境との相互作用のうちに生きざるを得ない、エコロジカルな存在であるのは確かであろう。しかし、今日のリベラリズムの文化においては、社会全体の道徳環境の問題は、個人の主権的な自由の排他的尊重により、ないがしろにされているのは確かであるように思う。「リベラル」な人たちにとっては、社会全体の道徳的環境などということを説くのは「抑圧的」な教説に他ならないと考えられている節がある。

 しかし、今日、日本の私たちの《生きづらさ》の背後には、社会の道徳的(さらには霊的(スピリチュアル)環境の問題があるように私には思われる。「よく生きる」ためには、自然の次元でも、道徳の次元でも「よい環境」が必要であり、その為には個人の自由の行使をいかに共同善としての「よい環境」の実現に向けて倫理的・法的に方向づけてゆくのか、考えねばならないように思う自然環境道徳環境基底的ろうが、道徳環境人間という固有問題ない人間両方世界接点。これはまさしく社会倫理学の課題である。社会倫理学環境」て、社会ヒューマン・エコロジないし「モラル・エコロジ考察は、自由主義的個人主義個人相関区別共同善存在、共同体共通倫理個人固有倫理相対的ろう自然法倫理つい必要があよう

 ところで、「よく生きる」とは有徳に生きることであり、それは「魂の善」を実現することでもあるのが古代ギリシア以来の思考である。この前提に立つならば、個人の「魂の善」を支えるような、共同体的な霊性(スピリチャリティ)について今日考える必要もあるように思う。今日、里山や古い神社仏閣パワースポット?などを再評価する動きもあるようだが、それは実はこうした個人の「よき生」を支える精神的・霊的(スピリチュアル)な「環境」を問題にしているとみることも出来るように思う。

 個人の「魂の善」の実現のためには、それを支えるような信念と生き方の枠組み、すなわち宗教が重要であると思うし、また個人の「魂の善」について配慮するような人物(専門職としては宗教家、教師、カウンセラー等色々ありうるが)の役割のみならず、「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」の問題として、霊的(スピリチュアル)な共同善=環境について考えてゆく必要があるように思う。つい今後考察たい

 

2014年2月3日月曜日

「主権」について

 法の世界では「国民主権」は日本国憲法の基本原理として知られている。また経済の場面では「消費者主権」という概念が語られてもいる。そこでは、「国民」や「消費者」が最終的な権威と権限を持ちつつ、「自己決定権」を行使し、法制や政治、経済のあり方を決することが出来る、ということが言われているとさしあたり理解できよう。

 ここで、「主権」の定義をめぐる長い論争史をたどる余裕も能力もないが、さしあたり国家内と国家間の、また経済の世界での、個人や一国家の、至高かつ排他的な「自己決定権」として、「主権」を定義してみたい。というのも、それこそ今日、「主権」概念が語られる際の基本的な意味内容であるように思われるからである。領土問題における各国民国家の排他的な「主権」や、消費者運動における消費者の「主権」性などの観念にそうした意味合いは現れているように思われるし、もはや現実的意味合いは不分明になりつつあるが、法・政治の場面での「国民主権」で言われていることも基本的にはそうしたことと思われるからである。

 そして、そうした「主権」概念において、実は個人や各国家の「自己決定権」を超えるような、それを導くべき、より上位の規範が実は基本的には問題にされていないことに、現代の「主権」概念の問題があるように思う。そこでは、個人や各国家が、それ自体、最終的な権威をもち、もはやいかなる客観的基準にも服しない、「主権者」と化す傾向が生じているのではないだろうか(そうした自律的な主権者同士の普遍的ルールに従っての共生を説くことは一つの客観的道徳に服することであるが、それだけでは客観的道徳の内実として不十分であるように思う)。

 しかし、フランスの哲学者ジャック・マリタン(1882~1973)がかつて説いたところから言えるように(『人間と国家』)、実は人間の持つ「主権」は絶対のものではなく、相対的な、「類比」(analogia)的性格のものに過ぎないように思う(厳密に言うとマリタン自身は「主権」は「絶対主義」に等しいとして法的・政治的意味における主権概念を全廃しようとするのだが)。個人であれ、各国家であれ、「主権」を持つのは相対的な意味にすぎず、排他的かつ絶対的な「主権」を持つものではない。勿論、国民は、国の主権者であり、各国民国家も対外的な主権を持つが、それは相対的で、あくまで限定された主権に他ならず、無制限の「自己決定権」を行使しうるものではない。すなわち、それらの主権をもつ主体も、自らをより上位の客観的な道徳法則に従わせねばならない。例えば、国家の外国に対する主権の行使は、国家間の平和の維持という、より上位の道徳法則に従ったものでなければならないし、国民の主権の行使の延長線上にある、国の政治や立法のあり方も、共通善と正義の実現という道徳法則に従ったものでなければならないだろう。

 これは、今日の日本で理解されることはかなり難しいだろうが、マリタンが説くように、実は真の、端的な意味での「主権者」は神に他ならないように思う。というのも、この世界の「存在」は自体的な存在(ens a se)ではなく、存在させるものによって存在している依立的な存在(ens per se)に他ならないのだから。であるからして、この世には運動や変化が存在し、栄枯盛衰、人間の歴史の世界があり、何よりも人間は自らの意に反しても死すべき存在であるのではないだろうか(漢字の「命」という字には「天の定め」という意味があるらしいが、深い洞察であると思う)。人間は、主権者として、自らの生命を支配することは出来ない。むしろ(以前にのべたように)超越者により「生かされて生きている」に他ならないのでないだろうか。そうであるならば、謙虚に、自らに与えられた「存在の条件」に従いながら、生きるしかないように思う。

 人間の「主権性」を、全能感を伴いつつ、無限に拡大しようという動きが、現代のテクノロジーを危ういものとしているように思われるし、最近の東アジア情勢の不穏感の一つの原因ともなっているように思う。