ローマ教皇が社会問題について発言した「社会回勅」は、レオ13世により1891年に公布された『新しい事柄』から、2009年にベネディクト16世により公布された『真理に根ざした愛』まで11ほど存在するが(数え方により若干変動するが)、その中でも1991年に東側世界の崩壊を受けてヨハネ・パウロ2世により公布された『百周年』回勅は重要な文書であると思う。
『百周年』回勅は、19世紀の資本主義社会の矛盾と社会・共産主義という対案の抱える問題点を指摘するために『新しい事柄』回勅が1891年に公布されてからちょうど百年になることを記念して公布されてもいるが、何よりも、1989年以降の東側体制の崩壊を受けての公布という意図があるように思う。
全体として、『百周年』回勅は、すでの『新しい事柄』で私的所有権の否定が批判され、同時に私的所有権の絶対性・排他性も批判され、いわば「私有公用」とも言うべき「第三の道」が共同善の原理として打ち出されたことの正しさが、東側世界の崩壊という歴史的事態により確認されたこと、またその反面、今後強まりうる自由主義・資本主義イデオロギーのいわば一人勝ち的な事態に対して、改めて共同善の観点から警鐘を鳴らすという趣旨であるように思う。19世紀末にカトリック教会が社会原理として述べた共同善、補完性、連帯性、人格性の四原理は、20世紀を通じてその正しさを歴史的に証明したということができるだろう。
人格性原理と共同善原理は、それぞれ社会という現実を構成する、対極にある2原理で、どちらをも欠きえない。各人の人格の尊厳は絶対的であり、人格の自由から、社会的な次元での自由も基礎づけられるし、諸々の個人権も各人の人格の完成という目的から導き出される。しかし、人間は単に個人として生きるのみではなく、家族をはじめ、様々の中間団体から国家、国際共同体に至るまで、共同体のうちに生きるので、個々人の善とは区別される共同善も個々の人格の対極にある実在として認められねばならない。
個人は、共同体のうちで、自らの位置・役割を得て社会化されることで自己を完成しうるし、豊かにしうる。そのプロセスでは個人は、自己一身の善のみではなく、共同善というより多くの人の善への貢献を通じてかえって自己実現するという修練が必要なものと考えられる(またこれは法人についても言え、その場合は企業の社会的責任の問題などになる)。また、共同善は、後述するように、個人がそのうちで生きる制度と「環境」でもあり、個人の生活を助けるべきものである。
補完性原理と連帯性原理は、人格性原理と共同善原理から必然的に要請されるもので、国家をはじめ、各共同体は個人や下位共同体から自分でなしうる課題・権限を奪ってはならず、かえって個人や下位共同体自身の自発的努力や創意を援助するような立場に立たねばならないというのが補完性原理、「一人は万人のために、万人は一人のために」という標語でも言い表され、各人・各共同体の共同善実現のための連帯を説くのが連帯性原理である。
こうした原理からすれば、私的所有権は人格的自由から由来する奪いえないもので、社会主義・共産主義体制は人格性原理に反したものとなる。そうした社会・経済体制はまた個々人の創意をそぎ、官僚国家化するので硬直した体制となりがちでもある。しかし逆に、個々人間の冷酷な競争社会・無縁社会は連帯性原理に反するし、各人の利己心のみにより成り立つ経済体制は共同善原理に反するので、新自由主義体制も認められないことになる。結論としては、各人の私的所有権を尊重しながら、これを創意工夫を持って(多元的な共同体の)共同善のために役立てるような社会・経済体制のみが、カトリック社会回勅の立場からは是認されることになろう。これがカトリック社会論が説いた、自由主義と社会・共産主義の「第三の道」である。
ここまでは、カトリック社会論の一般的説明であるが、『百周年』回勅で興味深いと私が思うのは、第4章「私的所有と物的財の普遍的用途」として共同善原理について説かれる箇所で、現代の先進資本主義・自由主義諸国の消費主義文化が批判されることに接続して、そうした国々では自然環境に対する「エコロジー」の意識は不十分ながら相応の高まりを見せているに関わらず、人間の生きる道徳環境すなわち「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」への意識が非常に希薄であるという批判である(「ヒューマン・エコロジー」という概念は2009年の『真理に根ざした愛』回勅でも再びとり上げられている)。
人間は、自然界の一員としても、道徳的存在として人間社会の一員としても、環境との相互作用のうちに生きざるを得ない、エコロジカルな存在であるのは確かであろう。しかし、今日のリベラリズムの文化においては、社会全体の道徳環境の問題は、個人の主権的な自由の排他的尊重により、ないがしろにされているのは確かであるように思う。「リベラル」な人たちにとっては、社会全体の道徳的環境などということを説くのは「抑圧的」な教説に他ならないと考えられている節がある。
しかし、今日、日本の私たちの《生きづらさ》の背後には、社会の道徳的(さらには霊的な)環境の問題があるように私には思われる。「よく生きる」ためには、自然の次元でも、道徳の次元でも「よい環境」が必要であり、その為には個人の自由の行使をいかに共同善としての「よい環境」の実現に向けて倫理的・法的に方向づけてゆくのか、考えねばならないように思う(自然環境は道徳環境より基底的だろうが、道徳環境は人間という種に固有の問題に関わると言えるかもしれない―人間は両方の世界の接点だけれども)。これはまさしく社会倫理学の課題である。社会倫理学が、「よい環境」にむけて、社会の「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」について考察するためには、自由主義的個人主義を超えて、個人の善と相関しつつもそれとは区別される共同善の存在、また共同体の皆に共通の倫理(個人固有の倫理に比べるとそれは相対的により「薄い」ものになるだろうが)としての自然法倫理について考える必要があるように思う。
ところで、「よく生きる」とは有徳に生きることであり、それは「魂の善」を実現することでもあるのが古代ギリシア以来の思考である。この前提に立つならば、個人の「魂の善」を支えるような、共同体的な霊性について今日考える必要もあるようにも思う。今日、里山や古い神社仏閣(パワースポット?)などを再評価する動きもあるようだが、それは実はこうした個人の「よき生」を支える精神的・霊的な「環境」を問題にしているとみることも出来るように思う。
個人の「魂の善」の実現のためには、それを支えるような信念と生き方の枠組み、すなわち宗教が重要であると思うし、また個人の「魂の善」について配慮するような人物(専門職としては宗教家、教師、カウンセラー等色々ありうるが)の役割のみならず、「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」の問題として、霊的な共同善=環境について考えてゆく必要があるように思う。この点については今後考察を深めたい。