2014年2月3日月曜日

「主権」について

 法の世界では「国民主権」は日本国憲法の基本原理として知られている。また経済の場面では「消費者主権」という概念が語られてもいる。そこでは、「国民」や「消費者」が最終的な権威と権限を持ちつつ、「自己決定権」を行使し、法制や政治、経済のあり方を決することが出来る、ということが言われているとさしあたり理解できよう。

 ここで、「主権」の定義をめぐる長い論争史をたどる余裕も能力もないが、さしあたり国家内と国家間の、また経済の世界での、個人や一国家の、至高かつ排他的な「自己決定権」として、「主権」を定義してみたい。というのも、それこそ今日、「主権」概念が語られる際の基本的な意味内容であるように思われるからである。領土問題における各国民国家の排他的な「主権」や、消費者運動における消費者の「主権」性などの観念にそうした意味合いは現れているように思われるし、もはや現実的意味合いは不分明になりつつあるが、法・政治の場面での「国民主権」で言われていることも基本的にはそうしたことと思われるからである。

 そして、そうした「主権」概念において、実は個人や各国家の「自己決定権」を超えるような、それを導くべき、より上位の規範が実は基本的には問題にされていないことに、現代の「主権」概念の問題があるように思う。そこでは、個人や各国家が、それ自体、最終的な権威をもち、もはやいかなる客観的基準にも服しない、「主権者」と化す傾向が生じているのではないだろうか(そうした自律的な主権者同士の普遍的ルールに従っての共生を説くことは一つの客観的道徳に服することであるが、それだけでは客観的道徳の内実として不十分であるように思う)。

 しかし、フランスの哲学者ジャック・マリタン(1882~1973)がかつて説いたところから言えるように(『人間と国家』)、実は人間の持つ「主権」は絶対のものではなく、相対的な、「類比」(analogia)的性格のものに過ぎないように思う(厳密に言うとマリタン自身は「主権」は「絶対主義」に等しいとして法的・政治的意味における主権概念を全廃しようとするのだが)。個人であれ、各国家であれ、「主権」を持つのは相対的な意味にすぎず、排他的かつ絶対的な「主権」を持つものではない。勿論、国民は、国の主権者であり、各国民国家も対外的な主権を持つが、それは相対的で、あくまで限定された主権に他ならず、無制限の「自己決定権」を行使しうるものではない。すなわち、それらの主権をもつ主体も、自らをより上位の客観的な道徳法則に従わせねばならない。例えば、国家の外国に対する主権の行使は、国家間の平和の維持という、より上位の道徳法則に従ったものでなければならないし、国民の主権の行使の延長線上にある、国の政治や立法のあり方も、共通善と正義の実現という道徳法則に従ったものでなければならないだろう。

 これは、今日の日本で理解されることはかなり難しいだろうが、マリタンが説くように、実は真の、端的な意味での「主権者」は神に他ならないように思う。というのも、この世界の「存在」は自体的な存在(ens a se)ではなく、存在させるものによって存在している依立的な存在(ens per se)に他ならないのだから。であるからして、この世には運動や変化が存在し、栄枯盛衰、人間の歴史の世界があり、何よりも人間は自らの意に反しても死すべき存在であるのではないだろうか(漢字の「命」という字には「天の定め」という意味があるらしいが、深い洞察であると思う)。人間は、主権者として、自らの生命を支配することは出来ない。むしろ(以前にのべたように)超越者により「生かされて生きている」に他ならないのでないだろうか。そうであるならば、謙虚に、自らに与えられた「存在の条件」に従いながら、生きるしかないように思う。

 人間の「主権性」を、全能感を伴いつつ、無限に拡大しようという動きが、現代のテクノロジーを危ういものとしているように思われるし、最近の東アジア情勢の不穏感の一つの原因ともなっているように思う。

 

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