古代ギリシアのキニク派の哲学者ディオゲネスは白昼、ランプを持って広場を「人間はどこにいる」と尋ねまわったエピソードで知られているが、まさしく現代の日本において同じ行動をする「ディオゲネス」がいても不思議ではないように思う。
人間で「ある」とは、人間として生まれた以上、事実である(Dasein=事実存在)であるが、同時に、人間で「ある」こと、あるいは人間に「なる」ことは人間にとって課題である(Sosein=理想としての存在)。つまり人間に「なる」とは、自然的に人間として母の胎内から生まれた者が、他者の助けとしての教育と自らの努力によって、過去の伝統と対話しながら、その理性の能力でもって有徳な、善い存在になることであり、そうして初めて真の意味で「人間である」ことが可能であるのでなかろうか。そしてそれは人の一生の課題であると言えよう。
翻って今日、日本で、自己の魂のあり方の問題としての有徳さについて、どう考えたらよいだろうか。これは以前に書いてように、難しい問題である。「有徳さ」について思考するには、徳が目指す目的、すなわち「善」が明らかにならねばならず、しかも諸々の個別的な「善」が究極目的とするところの「最高善」について明らかにされねばならない(さもないと徳論の全体が中途半端なものとなるだろう)。これは実は、同時に、現世の政治的・社会的共同体のあるべき姿についての教説と、人生の究極目的に関わる宗教の次元、およびその共同体的側面(キリスト教でいう教会論)とを思考することにつながるのだが、そうしたことを公共的な次元で考えることは、(超越的・宗教的次元に関しては)現代の日本では難しいであろう。
現代日本社会の事実の次元では、社会的な生産や流通の職業世界での厳格な規律と、個人の私的生活の消費の場面でのモラルの破壊の傾向が同時に現れ(両者は経済の成長に関わっている)、少しずつ前者の側を侵食しつつあるように思われる(例えば最近の巨額の着服事件などに現れているように思う)。そうした中でも友情や愛情など、人間の本来持つ自然な心の発現が完全に失われるわけではないけれども、それがこうした社会の構造により発現しにくくなったり、ゆがめられたりする傾向があるかもしれない。また、そうした社会の中にある人間が、そもそも何を人生の最終目的として生きるのか不分明である、「ニヒリズム」が生じているように思う。
そうした中で、各人の自己の「魂」のあり方が問題にされないし、それに伴い一般に人の理性の能力が弱体化し、物事を自分の心で感受したり、自分の頭で考えたりする力が弱くなってきているようにさえ思う。そこではもはや、人間を動物から区別する「理性的霊魂」の存在が危ういものとなりつつあるように思われる(「種差別」?の批判に抗してこう主張したい)。
これはもはや、人間の世界であるのか、だんだん危ういものとなっていると感じるのは私だけであろうか。インターネット上の無責任な言論などを見ると相当に危ない状況になっているように思うし、街の中で肌で感じるものから察しても、危機感はぬぐえない。魂の危機の時代に、せめて祈りを通じて自己と世間が聖化されることを願うばかりであるが、同時に私たち各人が自己の「魂」の存在を問題にし、人生の究極目的を問題にするような気風が必要であるように思う。それはどうしても何かの仕方で各人が「宗教」に関わることにならざるを得ないのではなかろうか。
かつての「国家神道」に戻るのでもなく、公共的な次元で宗教心をいかに問題にしうるのか、難問である。勿論、宗教に国家が積極的な関与をしてはならず、謙抑的態度を取らねばならないのは、憲法上も社会哲学的にも言うまでもないので、(国家ではない)「社会」の側に存在する宗教心がどう活性化するのかが問題となろう。そこでは、キリスト教や仏教等の伝統宗教が、いかに現代日本社会に対して強い問題意識を持ちながら、適切な視角から関わってゆくかが鍵になるように思う。哲学者の西谷啓二はかつて「現代における宗教の不在、宗教における現代の不在」を説いたそうだが、まさに至言であろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿