2014年10月10日金曜日

倫理学と西洋中世

 先日、とある学会で倫理学と西洋中世との関連を論ずるシンポジウムがあった。残念ながらあまり議論が展開しなかった感もあるが、聴衆として考えたことをまとめたい。

 西洋中世のキリスト教倫理学の視点から見て、今日の、日本や英語圏の世俗的倫理学の世界に欠けている論点は次のようなものではなかろうか。①このシンポジウムでも少し議論が出たが、リベラリズムの前提する個人的な善の構想と、中間社会や国民国家、国際社会それぞれの全体の「共同善」との関係を論ずること。善はそれが超越的になるほど普遍性を帯びると言えようが、各人が個別的善を追求することがいかに全体社会の超越的な共同善へと拡張してゆくのかを考えることは、リベラリズムに代わる社会・国家構想を提示するように思う。また善の超越性を考察することは、同時に倫理と宗教との関係を考察することにもつながるだろう。

 次いで、②人間の死ということに注視しながら、人生の究極目的の考察を倫理学のうちに取り入れること。私見では多くのいわゆる現代の規範倫理学をめぐる議論はいわば《死の忘却》に陥っているように思われる。中世のトマス・アクィナスは、人生の究極目的としての「至福直観」こそ、倫理と宗教をつなぐものであり、人間の死を超えて問題になるものと考えていたと言えようが、現代のいわゆる規範倫理学は、人生の究極目的を論じないことで個別的行為を束ねる、いわば扇の要がなくなり、自己解体しているようにも思われる。

教育と心理学

 今日、教育の世界への心理主義的発想の浸透について論じられるようになってきている。例えば、少し古いところではアメリカの宗教学者R.N.ベラーらによる『心の習慣』がそれである。本書の論点の中心は、現代の英米リベラリズムへの共同体主義の観点からの批判という点にあり、その観点から、同じく共同体主義者A.マッキンタイアの『美徳なき時代』を援用しつつ、現代の「官僚制的個人主義」社会における「キャラクター」としての「セラピスト」の位置づけを論じるという文脈で、そうした心理主義批判がなされていると言えよう。

 したがって、教育の世界への心理主義的発想の浸透という論点を理解するためには、その背後にある社会構造を理解せねばならないことを説いている点で、このベラーらの著作は優れたものと言えよう。

 のみならず、実は、そこで問題になっているのは、日本ではいわゆる「価値観の多元化」などという観念でもって語られる、自由主義的個人主義の相対主義的な道徳観および人間観にあることを指摘せねばならないであろう。つまり、教育の世界への心理主義的発想の浸透、のみならず端的に言って《教育の心理化》ともいうべき事態が生じているのは、実は人間の成長の目的について公共的な仕方で語り、コンセンサスを見出すことが難しいという事態にも由来するように思う。のみならず、それを個人単位で各人が構想するための思想的な枠組みすら希薄化していることに由来するように思われる(人間の成熟すべき姿について知ることが出来ずして如何にして教育について考えようか)。

つまり、第一に、人間はこの世に生まれて、いかなる人間になるべきなのか、また人生の究極目的は何なのかという問題、第二に、人間の成長の究極目的に至るために必要な徳目とは何かという問題、それに関連してそうした成長の理想像を示す典型的人物とはどういう人間なのかという問題、第三に、究極目的に至るためにたどらねばならない道徳法則は何なのかという問題、こうした問題について公共的に論ずることが困難になっているし、個人的に各人がそうしたことについて構想するための思想的な枠組みがもはや非常に希薄になっていないだろうか。

 今日、日本において大人が成熟するのが難しい社会が現出しているように思うが、それはそうした人間の成熟の枠組みが見出しにくいからであろうように思う。先日、いわゆる「イスラム原理主義組織」に日本人学生が参加しようとしていたという旨のニュースが報じられたが、ヨーロッパのみならず、日本においても、世俗主義的で相対主義的な文化と社会は(もちろん雇用の問題等もあろうが)、宗教的原理主義に向かう若者を生みつつあるのかもしれない。「原理主義」という理性の放棄に至るのではなく、理性を真の意味で十全に行使するために、逆説的ではあるが、信仰と理性の関係を再考する必要もあろう。

2014年3月17日月曜日

最近の日本の精神状況について


 最近、佐村河内氏の偽作事件と、小保方氏の「論文不正」問題がマスコミやインターネットの世界をにぎわせている。真相が両事件共に最終的に明らかになっていないので、これらについてコメントするべきではないが、ただ、現在の日本社会の精神的状況は相当に危ういものとなっていることは確かであろう。

 それはこれらの事件が起きてしまったということよりも、これらの事件からかいま見ることのできる、日本社会の精神的なあり方の問題である。全体として、マスコミ報道やネット上でのコメントに、相当に残酷な攻撃的精神の発露を感じる傾向がある。

 1980年代後半位から、日本社会への「自由主義的個人主義」の浸透により(またそれ以前から存在していたドイツ系の新カント派的相対主義を土壌としつつであろう)、日本社会は道徳的な変質をこうむり続けてきたように思うが、いまやそれが国のエリート層にまで由々しき影響を及ぼし、かつ一般社会にはかつてマックス・ピカートが大戦間期のドイツについて指摘した「無連関人」的メンタリティが浸透しているように思う。

 人間存在の様態が質料化し、社会的紐帯も弱まり、同時に強力なIT技術に支配された日本は、道徳的に退廃したエートスを、いわば魂の集合的な無意識部分にマグマのように抱えつつ、「ITファシズム」とでも呼ぶべき状況(このブログの最初の記事では「新ファシズム」と呼んだ)に陥っているように思う。そこに現れて来ているのは、他者に対する情け容赦のない攻撃性である。

  少なくとも、これは日本の精神的文化にとって、由々しき事態が生じていることであるのは間違いないだろう。真理への意志が、精神的文化の基底になければならないが、それがグロテスクな仕方で攻撃されているのだから。

現代日本で進行している事態…


人間が集団として倫理的に堕落し、その魂を悪しきものとするならば、どうなるであろうか。それは、その人間集団が理性を失い、自由を失うということに他ならないであろう。

 個人の「自由」への叫びとともに、欲望が肥大化し、理性による魂の秩序付けが不在となった状態が社会のうちで普遍化するならば、どうなるだろうか。当初は、それでも現代の「官僚制的個人主義」社会を脅かさない範囲内に個人のあり方が収まっていれば、見たところ社会全体に変化はないであろう。しかし、社会は内的に倫理的に変質し、基本的な安定性が次第に脅かされる可能性がある。

そうなると、まずは「自由」の質が主観的なものに変質し、客観的・公共的な自由はますます失われる可能性がある。そうした段階に至ると、公権力の個人に対する権力作用が増大し、個人は逆に次第に自由を失うに至るであろう。のみならず、そうした場面に至ると、欲望に飽いた個人は自己の主観的・客観的な「自由」をもてあまし、社会権力や公権力の強権的作用を支持し、自己をそれに心理的に同一化させようとするだろう。つまり個人の野放図な「自由」と欲望の追求は、残酷な全体主義国家を将来せざるを得ないのではないか。

 こうした事態が、まさに今の日本で進行しつつある自体でないことを祈るばかりである。

2014年2月27日木曜日

崩壊のきざし?


「そして、社会がその成員の集団的な人格崩壊をまったく自覚していない、ということが現在の危機の最大の悲劇なのです…。」(辺見庸『しのびよる破局』より)

 2009年であったか、NHKETVで放送された辺見庸氏の講演を聞いて、今の日本のマスコミに登場する文化人にも状況を的確にとらえている人がいるものだと思った思い出がある。その後、番組中で「予言」されていたように東日本大震災の悲劇が到来してしまった。

 辺見氏の著書『しのびよる破局』の論旨は、小生のブログとも通じるものがあるように思うが、(面識もない中で僭越ながら評させていただくならば)問題のすべての原因を資本主義システムの問題に帰着させる傾向があるように感じる点には少しだけ違和感もある。しかし、まず現代日本社会を価値観の崩壊と「失見当識」にあるものと捉えたうえで(それは拙論の立場からさしあたり簡単に言うことが許されるなら公共的な次元での普遍的倫理の不分明化と個々人の魂における宗教の不在ということに帰着させようが)、悲惨を体よく隠蔽する「コーティング」という概念の提示とか、資本主義システムを人間を病ませつつも健全な者としてふるまうよう強制するシステムと捉えるなど、多くの鋭い洞察がみられるのも確かである。

 氏の説かれるように、ますます我々は人間らしい心を失いつつあるように感じる。それもひょっとすると、非常に不気味なほど音を立てて壊れつつあるのかとも思う。

「人間はどこにいる」


  古代ギリシアのキニク派の哲学者ディオゲネスは白昼、ランプを持って広場を「人間はどこにいる」と尋ねまわったエピソードで知られているが、まさしく現代の日本において同じ行動をする「ディオゲネス」がいても不思議ではないように思う。

 人間で「ある」とは、人間として生まれた以上、事実である(Dasein=事実存在)であるが、同時に、人間で「ある」こと、あるいは人間に「なる」ことは人間にとって課題である(Sosein=理想としての存在)。つまり人間に「なる」とは、自然的に人間として母の胎内から生まれた者が、他者の助けとしての教育と自らの努力によって、過去の伝統と対話しながら、その理性の能力でもって有徳な、善い存在になることであり、そうして初めて真の意味で「人間である」ことが可能であるのでなかろうか。そしてそれは人の一生の課題であると言えよう。

 翻って今日、日本で、自己の魂のあり方の問題としての有徳さについて、どう考えたらよいだろうか。これは以前に書いてように、難しい問題である。「有徳さ」について思考するには、徳が目指す目的、すなわち「善」が明らかにならねばならず、しかも諸々の個別的な「善」が究極目的とするところの「最高善」について明らかにされねばならない(さもないと徳論の全体が中途半端なものとなるだろう)。これは実は、同時に、現世の政治的・社会的共同体のあるべき姿についての教説と、人生の究極目的に関わる宗教の次元、およびその共同体的側面(キリスト教でいう教会論)とを思考することにつながるのだが、そうしたことを公共的な次元で考えることは、(超越的・宗教的次元に関しては)現代の日本では難しいであろう。

現代日本社会の事実の次元では、社会的な生産や流通の職業世界での厳格な規律と、個人の私的生活の消費の場面でのモラルの破壊の傾向が同時に現れ(両者は経済の成長に関わっている)、少しずつ前者の側を侵食しつつあるように思われる(例えば最近の巨額の着服事件などに現れているように思う)。そうした中でも友情や愛情など、人間の本来持つ自然な心の発現が完全に失われるわけではないけれども、それがこうした社会の構造により発現しにくくなったり、ゆがめられたりする傾向があるかもしれない。また、そうした社会の中にある人間が、そもそも何を人生の最終目的として生きるのか不分明である、「ニヒリズム」が生じているように思う。

 そうした中で、各人の自己の「魂」のあり方が問題にされないし、それに伴い一般に人の理性の能力が弱体化し、物事を自分の心で感受したり、自分の頭で考えたりする力が弱くなってきているようにさえ思う。そこではもはや、人間を動物から区別する「理性的霊魂」の存在が危ういものとなりつつあるように思われる(「種差別」?の批判に抗してこう主張したい)。

 これはもはや、人間の世界であるのか、だんだん危ういものとなっていると感じるのは私だけであろうか。インターネット上の無責任な言論などを見ると相当に危ない状況になっているように思うし、街の中で肌で感じるものから察しても、危機感はぬぐえない。魂の危機の時代に、せめて祈りを通じて自己と世間が聖化されることを願うばかりであるが、同時に私たち各人が自己の「魂」の存在を問題にし、人生の究極目的を問題にするような気風が必要であるように思う。それはどうしても何かの仕方で各人が「宗教」に関わることにならざるを得ないのではなかろうか。

かつての「国家神道」に戻るのでもなく、公共的な次元で宗教心をいかに問題にしうるのか、難問である。勿論、宗教に国家が積極的な関与をしてはならず、謙抑的態度を取らねばならないのは、憲法上も社会哲学的にも言うまでもないので、(国家ではない)「社会」の側に存在する宗教心がどう活性化するのかが問題となろう。そこでは、キリスト教や仏教等の伝統宗教が、いかに現代日本社会に対して強い問題意識を持ちながら、適切な視角から関わってゆくかが鍵になるように思う。哲学者の西谷啓二はかつて「現代における宗教の不在、宗教における現代の不在」を説いたそうだが、まさに至言であろう。

中間社会の不分明化


 最近、またしても青年が自動車で群衆の中に突入する事件が発生した。思うに、こうした事件は現在の日本社会の基本的な構造の抱える問題に変化のない限り、他でも起こりうるだろう。日本社会の基本的な構造の抱える問題とは、1980年代以降のリベラリズムの浸透に伴う、「中間社会」(国家と個人の間にあり諸社会のこと)の紐帯の衰退、ないしは不分明化である(特に「雇用の流動化」の影響が大きいのは言うまでもない)。すなわち、家族をはじめ、学校、会社、地域その他におけるコミュニティ感覚の希薄化である。これは近年、「無縁社会」というNHKの造語を用いつつ問題視されるようになってもいる。

 個人の「自己」が帰属する場を見出し、安定感を得ることが、個人の成長には不可欠であると思うが、自由主義的個人主義一色に塗りつぶされた世界では、個人はそうした場を見出すのがますます難しくなりつつある。それは個人が自己を限定し、社会化する場を見出すことが難しくなっていることでもある。そこでインターネットの仮想現実の世界で自我を肥大化させつつ、国家という権力的共同体に自己を同一化しようとする「ネット右翼」が登場することになる。

 さらに、個人はもはや自己の生きる場を見出し得ないのみならず、自己の生きる指針、倫理もリベラリズムの世界であいまいなものとなっているかも知れない(これは時々学生のレポートなどから感じることである)。そもそも倫理とは、超越者や他者・共同体との人格の関係のうちにしか、十全な仕方で成立しえないように思う。またそうした関係を抜きには、「よき生」の構想や、さらには宗教を考えることはできないであろう。現代の自由主義的個人主義は消極的自由を個人に与えつつも、積極的自由の基盤になるそうした関係を作り上げる「物語」を個人に与ええていないように思う。

 そうした生きる意味の不分明化した「ニヒリズム」、道徳的相対主義の世界では、生産と消費の拡大を追求し続ける自己目的的な産業・消費社会の動向とも相まって、個人の魂のあり方も質料化し、アモラルな、欲望を方向づける導きを失ったものとなるのではないだろうか。そうした魂においては、魂の理性的部分は弱化すると共に欲望的部分が肥大化し、魂の秩序の転倒が生じ、もはや自己がどこに向かうべきか、合理的な方向付けがますます難しくなってゆく(実は哲学や宗教なしにはそうした魂の方向付けはそもそもなしえないのだけれども)。プラトンが説く、魂の御者(理性)の手綱が失われてしまっているのである。

加えて、マックス・ピカートの説くような、現代の「無連関」世界においては、そうした魂は、自己を何か輪郭のはっきりした権力的なものに同一化しようとするか(『我々自身の中のヒトラー』)、無連関な世界の中で、孤独な爆発を起こすかであるように思う。つまり、個人の魂の質料化と先の中間社会の喪失とが相まって、最近の「ネット右翼」のナショナリズムや、群衆の中での突発的行動が生じているように思えてならない。

 翻って問題の解決のためには、もう一度、「人間とは何か」、すなわち人間本性を見つめ直し、人間は個的人格であると同時に共同体的存在であり、かつそうした本性に由来する客観的な倫理の世界を生きるものであることを再確認する必要があるように思う。個人や法人の自由と市場での競争を通じての経済の活性化を説くだけでは、個人の倫理や様々の中間社会の共同体的意義、またそうした中間社会や国家に課せられる倫理を見失うのは間違いない。現在の日本社会に生じている動きは、「官僚制的個人主義」社会としての、自由主義的個人主義社会の安定性をも脅かしつつあるのも、間違いないだろう。

 また、そもそも1980年代以降、アメリカ発のリベラリズムが日本社会に浸透していったのは、単にアメリカの政治的・経済的・文化的「外圧」によるのみならず、日本社会の古い、おそらく大戦前後から連続している、共同体的なもののあり方に対する一般の嫌悪感があったのも確かであろうし、また、マルクス主義に絶望した世代が代替イデオロギーとしての自由主義的個人主義に飛びついた、という事情もあるであろう。いずれにせよ、個人を質料的な「個体」(individuum)ではなく、形相的な「人格」(persona)として正しく捉える中で、共同体の望ましい在り方を再考することが、リベラリズムを超えて「中間社会」の復興のためには必要であろう。

 そのための具体的方策は、誠に難しいだろう。おそらく、現代日本社会の「ほころんだ」部分が模索のための手掛かりを与えてくれそうである。以前、二度ばかり東北の被災地でのボランティア活動に参加したが、「官僚制的個人主義」社会システムのほころんだところでは、かえって人間同士の連帯や、超越者との関係という霊性を見出しやすいのかもしれない。

2014年2月16日日曜日

「ヒューマン・エコロジー」について


  ローマ教皇が社会問題について発言した「社会回勅」は、レオ13世により1891年に公布された『新しい(レールム・)事柄(ノヴァールム)』から、2009年にベネディクト16世により公布された『真理に根ざした愛』まで11ほど存在するが(数え方により若干変動するが)、その中でも1991年に東側世界の崩壊を受けてヨハネ・パウロ2世により公布された『百周年』回勅は重要な文書であると思う。

 『百周年』回勅は、19世紀の資本主義社会の矛盾と社会・共産主義という対案の抱える問題点を指摘するために『新しい事柄』回勅が1891年に公布されてからちょうど百年になることを記念して公布されてもいるが、何よりも、1989年以降の東側体制の崩壊を受けての公布という意図があるように思う。

 全体として、『百周年』回勅は、すでの『新しい事柄』で私的所有権の否定が批判され、同時に私的所有権の絶対性・排他性も批判され、いわば「私有公用」とも言うべき「第三の道」が共同善の原理として打ち出されたことの正しさが、東側世界の崩壊という歴史的事態により確認されたこと、またその反面、今後強まりうる自由主義・資本主義イデオロギーのいわば一人勝ち的な事態に対して、改めて共同善の観点から警鐘を鳴らすという趣旨であるように思う。19世紀末にカトリック教会が社会原理として述べた共同善、補完性、連帯性、人格性の四原理は、20世紀を通じてその正しさを歴史的に証明したということができるだろう。

 人格性原理と共同善原理は、それぞれ社会という現実を構成する、対極にある2原理で、どちらをも欠きえない。各人の人格の尊厳は絶対的であり、人格の自由から、社会的な次元での自由も基礎づけられるし、諸々の個人権も各人の人格の完成という目的から導き出される。しかし、人間は単に個人として生きるのみではなく、家族をはじめ、様々の中間団体から国家、国際共同体に至るまで、共同体のうちに生きるので、個々人の善とは区別される共同善も個々の人格の対極にある実在として認められねばならない。

個人は、共同体のうちで、自らの位置・役割を得て社会化されることで自己を完成しうるし、豊かにしうる。そのプロセスでは個人は、自己一身の善のみではなく、共同善というより多くの人の善への貢献を通じてかえって自己実現するという修練が必要なものと考えられる(またこれは法人についても言え、その場合は企業の社会的責任の問題などになる)。また、共同善は、後述するように、個人がそのうちで生きる制度と「環境」でもあり、個人の生活を助けるべきものである。

 補完性原理と連帯性原理は、人格性原理と共同善原理から必然的に要請されるもので、国家をはじめ、各共同体は個人や下位共同体から自分でなしうる課題・権限を奪ってはならず、かえって個人や下位共同体自身の自発的努力や創意を援助するような立場に立たねばならないというのが補完性原理、「一人は万人のために、万人は一人のために」という標語でも言い表され、各人・各共同体の共同善実現のための連帯を説くのが連帯性原理である。

 こうした原理からすれば、私的所有権は人格的自由から由来する奪いえないもので、社会主義・共産主義体制は人格性原理に反したものとなる。そうした社会・経済体制はまた個々人の創意をそぎ、官僚国家化するので硬直した体制となりがちでもある。しかし逆に、個々人間の冷酷な競争社会・無縁社会は連帯性原理に反するし、各人の利己心のみにより成り立つ経済体制は共同善原理に反するので、新自由主義体制も認められないことになる。結論としては、各人の私的所有権を尊重しながら、これを創意工夫を持って(多元的な共同体の)共同善のために役立てるような社会・経済体制のみが、カトリック社会回勅の立場からは是認されることになろう。これがカトリック社会論が説いた、自由主義と社会・共産主義の「第三の道」である。

 ここまでは、カトリック社会論の一般的説明であるが、『百周年』回勅で興味深いと私が思うのは、第4章「私的所有と物的財の普遍的用途」として共同善原理について説かれる箇所で、現代の先進資本主義・自由主義諸国の消費主義文化が批判されることに接続して、そうした国々では自然環境に対する「エコロジー」の意識は不十分ながら相応の高まりを見せているに関わらず、人間の生きる道徳環境すなわち「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」への意識が非常に希薄であるという批判である(「ヒューマン・エコロジー」という概念は2009年の『真理に根ざした愛』回勅でも再びとり上げられている)。

 人間は、自然界の一員としても、道徳的存在として人間社会の一員としても、環境との相互作用のうちに生きざるを得ない、エコロジカルな存在であるのは確かであろう。しかし、今日のリベラリズムの文化においては、社会全体の道徳環境の問題は、個人の主権的な自由の排他的尊重により、ないがしろにされているのは確かであるように思う。「リベラル」な人たちにとっては、社会全体の道徳的環境などということを説くのは「抑圧的」な教説に他ならないと考えられている節がある。

 しかし、今日、日本の私たちの《生きづらさ》の背後には、社会の道徳的(さらには霊的(スピリチュアル)環境の問題があるように私には思われる。「よく生きる」ためには、自然の次元でも、道徳の次元でも「よい環境」が必要であり、その為には個人の自由の行使をいかに共同善としての「よい環境」の実現に向けて倫理的・法的に方向づけてゆくのか、考えねばならないように思う自然環境道徳環境基底的ろうが、道徳環境人間という固有問題ない人間両方世界接点。これはまさしく社会倫理学の課題である。社会倫理学環境」て、社会ヒューマン・エコロジないし「モラル・エコロジ考察は、自由主義的個人主義個人相関区別共同善存在、共同体共通倫理個人固有倫理相対的ろう自然法倫理つい必要があよう

 ところで、「よく生きる」とは有徳に生きることであり、それは「魂の善」を実現することでもあるのが古代ギリシア以来の思考である。この前提に立つならば、個人の「魂の善」を支えるような、共同体的な霊性(スピリチャリティ)について今日考える必要もあるように思う。今日、里山や古い神社仏閣パワースポット?などを再評価する動きもあるようだが、それは実はこうした個人の「よき生」を支える精神的・霊的(スピリチュアル)な「環境」を問題にしているとみることも出来るように思う。

 個人の「魂の善」の実現のためには、それを支えるような信念と生き方の枠組み、すなわち宗教が重要であると思うし、また個人の「魂の善」について配慮するような人物(専門職としては宗教家、教師、カウンセラー等色々ありうるが)の役割のみならず、「ヒューマン・エコロジー」ないし「モラル・エコロジー」の問題として、霊的(スピリチュアル)な共同善=環境について考えてゆく必要があるように思う。つい今後考察たい

 

2014年2月3日月曜日

「主権」について

 法の世界では「国民主権」は日本国憲法の基本原理として知られている。また経済の場面では「消費者主権」という概念が語られてもいる。そこでは、「国民」や「消費者」が最終的な権威と権限を持ちつつ、「自己決定権」を行使し、法制や政治、経済のあり方を決することが出来る、ということが言われているとさしあたり理解できよう。

 ここで、「主権」の定義をめぐる長い論争史をたどる余裕も能力もないが、さしあたり国家内と国家間の、また経済の世界での、個人や一国家の、至高かつ排他的な「自己決定権」として、「主権」を定義してみたい。というのも、それこそ今日、「主権」概念が語られる際の基本的な意味内容であるように思われるからである。領土問題における各国民国家の排他的な「主権」や、消費者運動における消費者の「主権」性などの観念にそうした意味合いは現れているように思われるし、もはや現実的意味合いは不分明になりつつあるが、法・政治の場面での「国民主権」で言われていることも基本的にはそうしたことと思われるからである。

 そして、そうした「主権」概念において、実は個人や各国家の「自己決定権」を超えるような、それを導くべき、より上位の規範が実は基本的には問題にされていないことに、現代の「主権」概念の問題があるように思う。そこでは、個人や各国家が、それ自体、最終的な権威をもち、もはやいかなる客観的基準にも服しない、「主権者」と化す傾向が生じているのではないだろうか(そうした自律的な主権者同士の普遍的ルールに従っての共生を説くことは一つの客観的道徳に服することであるが、それだけでは客観的道徳の内実として不十分であるように思う)。

 しかし、フランスの哲学者ジャック・マリタン(1882~1973)がかつて説いたところから言えるように(『人間と国家』)、実は人間の持つ「主権」は絶対のものではなく、相対的な、「類比」(analogia)的性格のものに過ぎないように思う(厳密に言うとマリタン自身は「主権」は「絶対主義」に等しいとして法的・政治的意味における主権概念を全廃しようとするのだが)。個人であれ、各国家であれ、「主権」を持つのは相対的な意味にすぎず、排他的かつ絶対的な「主権」を持つものではない。勿論、国民は、国の主権者であり、各国民国家も対外的な主権を持つが、それは相対的で、あくまで限定された主権に他ならず、無制限の「自己決定権」を行使しうるものではない。すなわち、それらの主権をもつ主体も、自らをより上位の客観的な道徳法則に従わせねばならない。例えば、国家の外国に対する主権の行使は、国家間の平和の維持という、より上位の道徳法則に従ったものでなければならないし、国民の主権の行使の延長線上にある、国の政治や立法のあり方も、共通善と正義の実現という道徳法則に従ったものでなければならないだろう。

 これは、今日の日本で理解されることはかなり難しいだろうが、マリタンが説くように、実は真の、端的な意味での「主権者」は神に他ならないように思う。というのも、この世界の「存在」は自体的な存在(ens a se)ではなく、存在させるものによって存在している依立的な存在(ens per se)に他ならないのだから。であるからして、この世には運動や変化が存在し、栄枯盛衰、人間の歴史の世界があり、何よりも人間は自らの意に反しても死すべき存在であるのではないだろうか(漢字の「命」という字には「天の定め」という意味があるらしいが、深い洞察であると思う)。人間は、主権者として、自らの生命を支配することは出来ない。むしろ(以前にのべたように)超越者により「生かされて生きている」に他ならないのでないだろうか。そうであるならば、謙虚に、自らに与えられた「存在の条件」に従いながら、生きるしかないように思う。

 人間の「主権性」を、全能感を伴いつつ、無限に拡大しようという動きが、現代のテクノロジーを危ういものとしているように思われるし、最近の東アジア情勢の不穏感の一つの原因ともなっているように思う。

 

2014年1月23日木曜日

「社会倫理学」の必要性について

 日本には一つの学問の分野として「社会倫理学」は根づいていないし、専門の学会もないし、また「社会倫理学」を専門と看板を掲げてる研究者もほとんどいない。のみならず、「社会倫理学」とは何であるのか、そもそも一般に知られていないように思う。

 「社会倫理学」はドイツ語圏の、特にカトリック思想世界では”Sozialethik”として19世紀末のレオ13世教皇の回勅”Rerum Novarum”以来の伝統を持って存在しているし、英語圏でも”Social Ethics”という表題の著作はそれなりに存在しているように思う。しかし、日本ではそうした伝統は基本的にない。

 「社会倫理学」の学としての固有対象は、社会の「共同善」(common good)である。つまり、社会という存在者が個人とは別に、個人の存在に依りながらも存在し、それが一つの固有の作用を持つと同時に、それ自らの「存在」の充実が倫理的課題となるという、哲学的前提に立って社会倫理学は存在している。社会の存在の担い手は個人であるので、「共同善」の内実は最終的には個々の人格の「存在」の充足であることになるが、それに向けて、社会という人間間の関係性およびさまざまの制度にも固有の課題があり、そうした課題をいかに果たすのか、これが社会倫理学の課題であると言えよう。言い換えれば、(学生向きの説明をするならば)水槽の中のメダカのために、いかに良く水質を保つか、これが社会倫理学の対象である「共同善」の課題であるとも(大雑把には)いえよう。

 「社会問題」についての評論家は多いし、多くの人が玄人素人を問わず、「社会問題」について日々論評している。また「社会病理」について学的に論じられることがあるにも関わらず、「社会倫理」について論じられないのは、(国家および国家間も含み)「社会」という公共性の枠組みにおいて、「善」やそれを実現するための「規範」について現代日本では考えられなくなっているということであろう(また伝統的なアリストテレス以来の正義の三分法のうち、「共同善」の配分と交換に関わる配分的正義と交換的正義について語っても、「共同善」自体の成立を問題にする一般的正義ないし法的正義を問題にしない傾向も同時に現れている)

 その背景には、倫理についての個人主義的な見方、および相対主義的な見方があるように思われる。倫理に関する個人主義的な見方とは、倫理の問題を個人の善の実現とみる見方であり、個人を超えた社会・共同体の「共同善」を問題にしないことであり(それは「公共の福祉」を個人権間の調整原理と見る通説的な憲法学説にも表れているように思う)、相対主義的見方とは、そうした個人単位で倫理を捉え、公共的な次元での普遍的な倫理の成立を認めないという(実は非常に奇妙な)見方である。

 以前にも書いたように、立法や行政による具体的な政策の実行においては公共的な価値判断をしなければならないし、社会生活が成立するためには最低限の共通の「常識」が成立していなければならないので(また刑法学では個人とは区別される社会や国家の「法益」が実は語られてもいる)、こうした個人主義的・相対主義的な見方は、実は現実を離れたある種のイデオロギーであるとさえ言えるように思う。

 また社会問題、社会病理について考え、人々が「これはおかしい」と感じうる背景には、実は公共的・共同体的な次元での普遍的価値の把握が成立しているはずで、社会問題や社会病理を論ずるには、規範的次元で「社会倫理学」が前提として欠かせないはずである。

 では、社会倫理学はいかにして価値や規範の問題について、公共的・共同体的次元で考えるのか?それは人間の特殊的差異の根底にある、普遍的本性に由来する「自然法」の観点からとしか言いえないように私は思う。社会倫理を基礎づけ、また法共同体=国家の内部で普遍的に強制しうる法の基盤となるのは、少なくとも最低限の普遍的内容を持つ「自然法」という規範ではないだろうか(ドイツでは討議倫理学からのアプローチもあるが、普遍的規範の内実は人間本性という実在的基盤からしか由来しえないと思う)。

 こうした議論は、リベラリズム全盛がいまだ続く世の中では受けが悪いが、リベラリズムのはらむ内的矛盾はこれまでにも記したところである。今後、日本と世界の将来を真剣に考える「社会倫理学者」が一定の割合でこの国に存在し、公共的な議論を行うことが必須であるように思われるし、そのために学問分野として「社会倫理学」が社会的に認知されるようにこれを普及させ、また「社会倫理学」の方法論や課題について議論と共有が必要であるように思う。そのためには「日本社会倫理学会」を立ち上げねばならないだろう。

2014年1月18日土曜日

「無痛文明」と体罰


「社会を構成する個々人の幸福、すなわち彼らの快楽と安全が、立法者が考慮しなければならない目的、それも唯一の目的である…」(ベンタム『道徳および立法の諸原理序説』第3章1より) 

 18世紀の終わりにジェレミー・ベンタムが法の唯一の目的として「快楽と安全」を説いたことは、『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスレー)としての「無痛文明」(森岡正博)の到来をイデオロギーにおいて先取りしていたのかもしれない。確かに現代の「無痛文明」において、苦痛の排除と快楽の増進、不安の排除と計算可能な安全の確保が求められ、そこにおいてはかえって人の真の「生命」の充実が失われつつあるのは確かかもしれない。

 ところで今日の日本では、教育の場面での「体罰」について、人はあまり合理的に問題を考えることが出来なくなりつつあるのではないか。一方で、学校教育法の条文を盾に、一切の体罰に対する否定的な見方、いわば「体罰狩り」が、(文部科学省の体罰に対する否定的な公式見解を背後にもちつつ)マスメディアやそれに影響された世論のうちにみられるように思う。また、今日の自己愛的な「無痛文明」では、体罰はまさしく犯罪行為のごとく考えられる傾向があるように思われる。

 他方で、「ゼロ・トレランス」の掛け声を背景に、体罰を盲目的に肯定する傾向も生じつつあるかもしれない。

 実はこれら両方の方向に共通に、体罰の背後にある、子供に教育さるべき「規範」が何であるのか、不分明になっている事態があるのではないだろうか。それは、一般に教育者の権威の低下にも伏在する現象だと思うが、教育さるべき「規範」の不分明化、またそうした「規範」の元となる倫理的真理についての不可知論が、体罰についての全否定か盲目的な肯定かという両極端な見方を生んでいるように思う。

 翻って、人を真に幸福にする倫理的真理が明らかになれば、そこから教えなければならない「規範」も明らかとなろうし、教育のための方法は、そうした「規範」を教えることに相関したものとして考えることが出来よう。これはまさしく「自然法」と教育の関係の問題である。

 中世のトマス・アクィナスは『神学大全』で、父親的な勧告が通じないほど悪しき性状が常態化した学生には、体罰を加えることも正当なものとみていた。近代的なある種の「啓蒙主義」からすると、まさしくこうした見方は中世的な権威主義の権化として一笑に付されるかもしれないが、私はまともな見解だと思う。

 もちろん、体罰で子供に怪我をさせてはならないのは言うまでもないし、個人的な怒りをぶつけるものであってもならないだろうが(とはいえ教員も人の子として怒りの感情を持つのは当然だと思うが)、合理的な仕方での「教鞭」を用いることについて再考しなければならないのではないだろうか。

 専門的な心理学者等はどう考えているのか興味深いが、素人の印象論として、子供たちが自らリストカットしたり、突発的な凶行に走る事件が起きるようになったことと、体罰の全否定の傾向とは無関係ではないような気がしてならない。素朴に「痛い」と感じる体験は、自己と身体とが一体であることの体験となろうし(「性同一性障害」にはデカルト的二元論が前提されているとも哲学的に言えないか)、何よりも他者に対してやってよいことには限度があることを学ぶ体験にもなるように思う。

 あらゆることを快適に、安全・安心にしようとする「無痛文明」はある種の近代的啓蒙主義の産物であるようにも思われるが、実は人間性をかえってゆがめていないか、真剣に再考が必要であるように思う。

2014年1月12日日曜日

権威主義について


 最近、気のせいか、国家権力やその他の社会権力に自分を心理的に同一化する人が増えているように感じる。典型的には「ネット右翼」がそれだと思うが、国家権力や社会権力を批判する「左翼」の言説は今日では分が悪いのは確かであろう。そうした同一化をしているような人こそ、本来、現代社会の階級性を批判する左翼思想の持ち主であっても不思議ではないのだけれども。

 こうした傾向の背景にあるのは、やはりかつてE.フロムがファシズム登場の社会的前提として指摘した、大衆社会における個人の孤立ということであろうか。今日のグローバル競争社会において、個人の雇用や社会的絆が不安定化していることや、そこで個人が無力感を感じていることが、個人の孤立の背後にあろう。また生きる意味や目的の不分明化ということが、社会的閉塞感を生み出し、閉塞感を打破してくれそうな強い力を求めているのかもしれない。さらには、残酷な競争社会において、心理的に「負け組」にならないための、いわば「防衛機制」として、自己と権力との同一視が生じているのかもしれない(これらすべてにおいて、人間の存在様態=魂のあり方の質料化が生じているのも確かであろう。すなわち、自己の魂において露わである自己の惡から逃避するために、権力と自己を同一視しようとしているのかもしれない―自己の魂の問題からはそうした仕方では逃れられないのだけれども)。

 E.フロムがいう「権威主義的パーソナリティ」の人が、今日、自己を国家権力や社会権力と同一視し、「ネット右翼」と化しているのであろうが、残念ながら、自らの孤独や不安、無意味感を解消するためのそうした行動は、そうした人たちの社会的不安定を現実的に解消する力とはならないし、残酷なグローバル競争社会の中での、「ガス抜き」にしかならないであろう。そして、そうした「ガス抜き」は、一部の支配層にとっては好都合であろう。自分たちが利用したい大衆の不満を逸らし、しかもそのエネルギーが、自分たちの立場を批判する「左翼」に向かってくれるのだから。

 根本的には、今日ふたたび、生きる意味や目的が再発見されねばならないし、経済社会や文明全体を人間の「よき生」に結び付けて考え直さねばならないように思う。そして「よき生」について考えるためには、人間の「魂」のあり方について考えねばならないし、個人の生きる社会的な枠組みと、その中での有徳な生について再考せねばならないだろう。また、グローバルな経済成長競争自体が、自己目的化していることが本末転倒であるのは言うまでもない。

 そして、「よき生」において問題になる、生きる意味や目的の再発見のためには、今日ふたたび、倫理的な真理についてまじめに考えねばならないだろう。権威主義においては、権力に個人が盲目的に自己を同一化しようとし、権力が何を実現しようとしているのか問題にしない。その背後には道徳的不可知論・相対主義が伏在してもいる。真理自体の持つ権威は、不可知論的でアモラルな権威主義とは全く異なるはずである。

人間のサイボーグ化?


 人間の人体と自動制御の機械の融合物を「サイボーグ」と呼ぶらしいが、サイボーグは今日、人工臓器のような姿のみならず、ある意味で人間実存そのものとなりつつあるようにも思われる。例えば、いわゆる「スマホ歩き」など、私には「サイボーグ」そのもののようにも見える。

 その背景には、もちろん、IT技術が今日の資本主義社会において、「成長」の牽引力であり続け、加えて、いわば資本主義の最後のフロンティアとも言える人体をまで「植民地」と化そうとする、資本主義システムの働きがあろう。実際、「ウェアラブル」と呼ばれる、身に着けるタイプのIT機器が開発されているようであり、今後、ますます人間のサイボーグ化は進む可能性がある。

 最近は下火になったらしい茶髪文化、再生医療や人工臓器(この2つの評価は慎重でなければならないだろうが)、「人体部品ビジネス」など、人体そのものの商品化と、IT機器による人間のサイボーグ化、人間というものの資本主義システムによる「植民地化」はとどまるところを知らないようにも見える。「聖域」(サンクチュアリ)をいかに倫理と法制でもって守って行くか、「人間の尊厳」の擁護のために、課題となるように思う。もっとも、社会の大部分の人が、サイボーグ化した人間に違和感を感じなくなると、もう止めようがないだろうが。

2014年1月9日木曜日

常識について


 アリストテレスは『政治学』(1253a)で人間の共同性を成立させるものは「善悪についての共通の知識」であると説いていた。確かに、何が善であり、悪であるのか、基本的な点で共通の確信がない人間同士はお互い同士がエイリアンたらざるを得ないだろう。その意味では、およそ社会生活がなにがしか成立しているならば、実はそこでは共通の基本的な倫理的確信が成立しているはずで、近年の日本におけるような「倫理的な信念は個人個人で違って当たり前」という相対主義的信念は、実は現実から遠いものと言わざるを得ないだろう。

 そもそも、特殊的な相違があることが理解しうるのは、前提として共通の普遍的な事柄が了解されているからであろう。しかし、今日では、個別的特殊性の側のみが強調され、共通の普遍性の側があまり注目されない傾向があるように思う。それが、「常識」よりも、主観的自己愛の世界を重んじる時流と重なっていないだろうか。

 しかし、主観的自己愛の世界は、客観的な現実世界に根差していないので、「常識」と齟齬をきたし、そこであえて自己愛の世界をかたくなに押し通そうとすることが、「クレーマー」や「モンスターペアレント」などと呼ばれる近年評判の悪い人たちを生み出していないだろうか。

 確かに、人間理性には「常識」を持つことへの基本的資質が備わっており、それが家庭生活をはじめ社会生活を通じて発達させられることは確かであろう。しかし、リベラルな社会の「コンパートメント化」の傾向に対しては、改めて人間の共同生活を成立させる基盤となる「常識」の意義について着目し、また教育の場面でそれを養う努力も必要であると思う(というのもどうしても常識なしにはコンパートメントの「破れ」から社会的紛争が生じうるので)。

長寿と善き生


 今日、高齢化社会の到来が言われて久しい。ところで、旧約聖書では長寿は神の祝福の結果と考えられているようだ(アダムとエヴァの歴史以前の原初物語からアブラハムの召命の歴史物語に移行する期間に登場する人物の寿命は非常識に長く記されている)。確かに、神との関係を、信仰の徳において十全に生きた人の寿命が長いのは、恵みの賜物なのかもしれない。

 しかし、今日の、近代的な医療制度の発達に伴う人間の平均寿命の延長は、いかに考えたらよいだろうか。倫理学の立場から言うと、「善く生きる」ことと、(たんなる)長生きは区別されねばならないと思う。「善く生きる」とは有徳に生きることであり、理性の秩序に属する理性的善の事柄であるが、たんに寿命が長いことは、自然の秩序に属する自然的善の事柄であろう。もちろん、「自然的」ではあっても、善である以上、長生きは善いことである。しかし、例えば、悪徳の人の長生きについては、いかに考えるべきだろうか?

 実は、善く有徳に生きるという理性の秩序の事柄と、長生きするという自然の秩序の事柄は、いわば次元の違う事柄であり、イコールではない。それゆえ、たとい短い人生であっても、善く、有徳に(特に愛徳をもって)生きた人の人生は「善き生」であったと言えようし、逆に、単に長生きをしても、悪徳の人の人生は、そうは言えないだろう。

 今日、生命倫理について論じられる際、こうした点について考えられているだろうか。有徳さとは何か、「善き生」とは何かわかりづらい今日、死生の意味もわかりづらくなっているように思う。

 しかし、ともかく人間は多く、死ぬことを恐れる。永生の可能性は、人間の生命が存在論的に言って与えられたものにすぎないならば、生命の与え主との関係の如何に懸っているのであろう。ギリシア的な「魂の不死」か、ユダヤ的な「復活」か、仏教的な「輪廻転生」か、死後の物語は多様であるけれども。

2014年1月6日月曜日

沈黙の世界


 「現代世界の状態、いや、生活全体が病んでいるのだ。もし私が医者であって、どうすればよいかと相談をうければ、私はこう答えるだろう…『沈黙を創れ!』」(マックス・ピカート『沈黙の世界』より)

 中島義道氏の著作にたしか『うるさい日本の私』というのがあったが、確かに今の日本、街に出ればどこもかしこも音楽や活字メッセージなどに溢れている。そうした状況においては、それを嫌う人も「囚われの聴衆」とならざるを得ない。キリスト信者の私が特に気になるのは、教会でミサにあずるとき、聖堂の中で私語をする人が多くいることである。本来、そうした場所は、沈黙のうちで、神と出会うために造られているように思うが、神様よりも1週間ぶりに会った仲間とさっそく雑談したいのだろうか。

 また「夜回り先生」こと水谷修氏は「夜眠らない子供」「夜眠られない子供」について書いておられるが、現代の都市自体が、夜間の沈黙を失い、ひいては人間の心の平穏を失わせているのかもしれない。最近、東京の「二十四時間都市化」が唱えられているらしいが、とても賛成できない(水谷氏も講演で猪瀬知事を批判していた)。

 資本主義システムはあらゆる「生活世界」をいわばミダス王の黄金の手でもって開発し、近年では人体までもがその対象となりつつあるが、大自然のうちにあるはずの、やさしい沈黙も犠牲になっているということだろう。

 ピカートの言うとおり、視覚・聴覚の両面での「沈黙の世界」の回復が、今日、霊的(スピリチュアル)な共同善としての「人的環境」(ヒューマンエコロジー)の形成のために必要だろう。というのも、人が真に他人や神と出会いうるのは、沈黙を媒介にしてであるように思われるからである。

2014年1月5日日曜日

我々自身のなかの…


  名著『我々自身のなかのヒトラー』や『人間とその顔』、『沈黙の世界』『神よりの逃走』『騒音とアトム化の世界』などで知られるスイスの宗教思想家マックス・ピカート(1888~1963年)の思想は、今日でも傾聴すべきものがあるように思う。というよりは、まさしく図らずも現代日本の置かれた状況を的確に診断することとなっていると言えよう。

 1920年代頃の大衆社会の到来以降登場した、新聞やラジオなどマスメディアの支配する世界、世俗化し産業化した雑然とした近代都市、またカリキュラムの内的連関の不分明な教育制度さえ、「無連関人」という自我の統一根拠をもたない人間が生み出し、それらの環境が逆にそうした人間を再生産しているというのがピカートの議論の前提である。そして、ファシズムを支持したのはそうした「水母のような曖昧模糊とした」自我を持つ「無連関人」としての大衆であり、「無連関人」にとっては、どんな恐ろしいことでも何か起こっていることを感じることが出来るならば、そこに自我がぶつかる境界を見出すことが出来、自分が本質的にもつ不安から逃れることが出来るというのである。

 そしてアドルフ・ヒトラーはそうした無連関世界において、ちょうど新聞紙上の雑多な広告群の中に繰り返し登場する練り歯磨きの広告のごとく、ただ繰り返し「露出」することで目立った存在となることで、「無連関人」の心に浸透していったというのである。こうした議論は、まさしく現代の日本の置かれた状況にそのまま当てはめることが出来、「我々自身のなかのヒトラー」ならぬ、「我々自身のなかのx」と繰り返し語ることが出来るだろう。特にIT化により飛躍的に社会に流通する情報が増大し、それらの無連関な情報群に晒され続けている我々にとって。

 翻って「無連関」化はなぜ生じたか問えば、西洋に関して言えば、啓蒙主義時代以降、世俗化の流れの中で、キリスト教という文化全体の統一原理が失われ、文化の各領域が断片化・自律化し、それらの全体的布置や最終的意味づけが不分明化していったということだろうか。日本に関して言えば、明治以降の急速な近代化の流れの中で、そうした近代西洋文明を急激に取り入れた中で抱えた無理が、そうした状況を生んでいる面もあるのかもしれない。

 無連関世界において、人間らしさが失われると、人間の顔が失われてゆくというピカートの指摘は、最近の日本の世間で肌で感じる感覚からすると、まさしく今の我々の事柄であるように思う。今日、この人間の世界の文化を究極的に基礎づける原理はどこに見出すことが出来るだろうか…。

真理と権威


 本来、真理には権威があるはずである。アウグスティヌスはたしか、多くの騙す者がいるに関わらず、騙されることを欲する者は誰もいない、と述べていた。人間の理性は、真理を渇望し、真理において自らの充足を見出す。それゆえ、人間理性にとって真理は本質的に権威を持つはずである。

 今日、権威の失墜が言われて久しいように思うが、その背後にあるのは、真理についての不可知論、また真理というものが人間の人生の目的として占める意義の不分明化ということであろう。そもそも、日本の近代教育制度において、真理は人間存在全体を充足し、完成させるような救済論的意味を持つものとして捉えられていないのではないか。そこでは、知識が断片化され、相互の関連や、部分的知識の意義が不分明化し、知識は学ぶ者にとって上級の学校に進むために学ばねばならぬ何かであるように捉えられる傾向があるのではないだろうか。

 学校の世界においても、学級崩壊やそれに近い事態が近年に頻発しているのは、まさしく近代以来の日本の学校制度で学ばれる知識の意義が不分明化し、またそれに伴い教師というものに対する世間の態度が変化していることも原因としてあるように思う。自分にはまだ分からないけれど、何か自分を満たしてくれるような知識を教授してくれるように思える存在に対して、人は権威を認め、その人の言葉を聞こうとするであろう。

 真理に対するシニカルな態度や、結局のこところ何が真理であるか分からないという不可知論がまさしく知的世界の混乱の根にあるように思う。そして、そうした真理不在の状況で「神」と化すのが、個人の主観的自己愛の世界である。所謂「上から目線」なる言葉はそうした世界で登場していると言えるだろう。キリスト教の啓示の世界では、ピラトの「真理とは何か」という問いに対して「見よ、この人だ」という答えが与えられているが、人間理性が自らの究極的充足のために理論的かつ実践的な真理を見出す方策を哲学は再考する必要があるのかもしれない。

魂の浄化


 これから述べることは、私も未だどう考えてよいのか、模索中のことである。個人的な話であるが、私は駅や道路や電車の車内など、公共の場で、他人の「気」というか、私の言葉でいうと、「魂」をはっきり感じることが多い。それも、たいていは、非常に淀んだ嫌なものとして感じることが多いのである。インターネットを見ると、同じように感じる人がいるらしく、そういう人は外出をなるべく控えることもあるという。個人的に良くわかるのだが、仕事などで外出しない訳にもいかないので、毎回嫌な思いをこらえている。このことは、そうした感受性がないと分からないと思うので、残念ながら分かる人にしか分からない話なのだろう。

 しかし、毎回外出して嫌な思いをするたびに思うのは、いまの多くの日本の人々の間で、正直なところ「魂」のあり方が、かなりまずいものになっているのではないかということである。古代ギリシアのプラトンの『ソクラテスの弁明』では、陪審員としてのアテナイ市民たちに、自分の欲望追求ではなく「魂をすぐれたものにすること」の意義を説きつつ死刑に服したソクラテスの最後の一場面が描かれているが、人間の「魂」のあり方について、今日どれだけの人が考えているだろうか。

 「魂」の存在を感じること、また「魂」について哲学的に考えること、「魂」を善く育てる実践的方策について考えること、こうしたことが今日必要であるように思うし、現代日本の文明のあり方の最大の欠陥は、あるいは人間の「魂」の存在を問題にしていないことではないかとも思う。

 小生はキリスト信者(カトリック)であるが、教会の聖櫃のある聖堂で、ロザリオの祈りなど唱えていると、自分の道徳的欠陥に由来する「魂」の汚濁が癒されてゆくように感じるし(他人にかけた迷惑はもちろんそれでは償えないが)、世間でこうむった「魂」の疲れが癒されるように感じる。いまの日本に必要なのは、個人の祈りのエートスであり、またそうした個人の祈りを支える、社会的で霊的(スピリチュアル)な共同善とでも言うべき「人的環境(ヒューマン・エコロジー)」(ヨハネ・パウロ2世『100周年回勅』より)ではないかと、私の立場からは思えてしまう。

 こうしたことを、どう学問的に考えてゆけるか、以前から模索している。特に、倫理と霊性の関係について考察を深められるような手掛かりを探している。プラトン=ソクラテスや、十字架のヨハネのような神秘家は手掛かりになりそうだけれども。

2014年1月4日土曜日

「ポルノの権利」?



 短大の「憲法」の授業で使っている入門的教科書に「ポルノの権利」なる章があって、以前から面食らっている。著者によると刑法175条「わいせつ物頒布罪」は憲法上の知る権利を侵害するので、憲法違反の疑いがあるとのことである。

 一口に「ポルノ」とはいっても、さしあたり、小説や漫画などの純然たるファンタジーの話と、アダルトビデオや写真などリアルな媒体とは区別すべきだろう。後者の場合、その制作の場面での女優となる女性への性暴力とか、リアルな「他者危害の」問題をも孕んでもいるように思う。この点で、リベラルな立場をとるフェミニストの人たちも、もっと怒ってもよさそうなものなのに、”APP研“と呼ばれるグループの人たちなどを除いて、(私の不勉強か児童ポルノを除き)そういう話はあまり聞いたことがない(被写体となる女性など本人の自己責任の問題と考えられているのだろうか)。

 かつて河合隼雄氏は売春は「魂に悪い」と言ったそうだが、ポルノ視聴もあるいは「魂に悪い」のかもしれない。そういう意味では、あるゆるポルノは憂慮さるべきものかもしれない(社会環境としての「共同善」を問題にする社会倫理学者ヨハネス・メスナーはポルノの広範な流通には批判的である)。しかし、ポルノ視聴の精神的悪影響について研究している心理学者の話などは、日本では聞いたことがない(研究している人がいてもよさそうなものなのに)。

ここで、「ポルノ(視聴)の権利」を考察するには、まずそもそも権利とは何かを考察せねばならないが、権利とはある人に、その人が自らの個別的な「本性」を実現するために帰属する諸権限の総体と、自然法論の立場からはさしあたり定義できるだろう。それゆえ、その人の真の自己実現のためにはならないことは権利とならないはずである。

 ポルノの問題を考えるならば、人間本性の内にある「性の目的」について考えねばならない。この問題は、同性婚の問題を考える際にも考えねばならない厄介な問題だと思うが、理性的存在である人間の性には創造的な(ある意味での)「遊び」の要素があるものの、その本質的な目的が生殖にある点は、(イデオロギーではなく)人間本性の構造に由来する事実であると思う。そこから言うならば、法的にみてポルノ視聴の「権利」はどうしても導出できないし、若者や独身者の視聴について一定の寛容が認められるにすぎないだろう。

 加えて、ポルノ制作がアンダーグラウンドな産業になっていることや、先の制作の場面での性暴力の問題など含めて考えると、(小説や漫画などではないリアルな)ポルノ制作や流通についてはより厳しい見方をせざるを得ないのではないだろうか。チャタレイ事件最高裁判決でいわれた、社会のモラルに対する「臨床医的役割」を、今日、誰が果たしうるだろうか。