2014年1月12日日曜日

権威主義について


 最近、気のせいか、国家権力やその他の社会権力に自分を心理的に同一化する人が増えているように感じる。典型的には「ネット右翼」がそれだと思うが、国家権力や社会権力を批判する「左翼」の言説は今日では分が悪いのは確かであろう。そうした同一化をしているような人こそ、本来、現代社会の階級性を批判する左翼思想の持ち主であっても不思議ではないのだけれども。

 こうした傾向の背景にあるのは、やはりかつてE.フロムがファシズム登場の社会的前提として指摘した、大衆社会における個人の孤立ということであろうか。今日のグローバル競争社会において、個人の雇用や社会的絆が不安定化していることや、そこで個人が無力感を感じていることが、個人の孤立の背後にあろう。また生きる意味や目的の不分明化ということが、社会的閉塞感を生み出し、閉塞感を打破してくれそうな強い力を求めているのかもしれない。さらには、残酷な競争社会において、心理的に「負け組」にならないための、いわば「防衛機制」として、自己と権力との同一視が生じているのかもしれない(これらすべてにおいて、人間の存在様態=魂のあり方の質料化が生じているのも確かであろう。すなわち、自己の魂において露わである自己の惡から逃避するために、権力と自己を同一視しようとしているのかもしれない―自己の魂の問題からはそうした仕方では逃れられないのだけれども)。

 E.フロムがいう「権威主義的パーソナリティ」の人が、今日、自己を国家権力や社会権力と同一視し、「ネット右翼」と化しているのであろうが、残念ながら、自らの孤独や不安、無意味感を解消するためのそうした行動は、そうした人たちの社会的不安定を現実的に解消する力とはならないし、残酷なグローバル競争社会の中での、「ガス抜き」にしかならないであろう。そして、そうした「ガス抜き」は、一部の支配層にとっては好都合であろう。自分たちが利用したい大衆の不満を逸らし、しかもそのエネルギーが、自分たちの立場を批判する「左翼」に向かってくれるのだから。

 根本的には、今日ふたたび、生きる意味や目的が再発見されねばならないし、経済社会や文明全体を人間の「よき生」に結び付けて考え直さねばならないように思う。そして「よき生」について考えるためには、人間の「魂」のあり方について考えねばならないし、個人の生きる社会的な枠組みと、その中での有徳な生について再考せねばならないだろう。また、グローバルな経済成長競争自体が、自己目的化していることが本末転倒であるのは言うまでもない。

 そして、「よき生」において問題になる、生きる意味や目的の再発見のためには、今日ふたたび、倫理的な真理についてまじめに考えねばならないだろう。権威主義においては、権力に個人が盲目的に自己を同一化しようとし、権力が何を実現しようとしているのか問題にしない。その背後には道徳的不可知論・相対主義が伏在してもいる。真理自体の持つ権威は、不可知論的でアモラルな権威主義とは全く異なるはずである。

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