「現代世界の状態、いや、生活全体が病んでいるのだ。もし私が医者であって、どうすればよいかと相談をうければ、私はこう答えるだろう…『沈黙を創れ!』」(マックス・ピカート『沈黙の世界』より)
中島義道氏の著作にたしか『うるさい日本の私』というのがあったが、確かに今の日本、街に出ればどこもかしこも音楽や活字メッセージなどに溢れている。そうした状況においては、それを嫌う人も「囚われの聴衆」とならざるを得ない。キリスト信者の私が特に気になるのは、教会でミサにあずるとき、聖堂の中で私語をする人が多くいることである。本来、そうした場所は、沈黙のうちで、神と出会うために造られているように思うが、神様よりも1週間ぶりに会った仲間とさっそく雑談したいのだろうか。
また「夜回り先生」こと水谷修氏は「夜眠らない子供」「夜眠られない子供」について書いておられるが、現代の都市自体が、夜間の沈黙を失い、ひいては人間の心の平穏を失わせているのかもしれない。最近、東京の「二十四時間都市化」が唱えられているらしいが、とても賛成できない(水谷氏も講演で猪瀬知事を批判していた)。
資本主義システムはあらゆる「生活世界」をいわばミダス王の黄金の手でもって開発し、近年では人体までもがその対象となりつつあるが、大自然のうちにあるはずの、やさしい沈黙も犠牲になっているということだろう。
ピカートの言うとおり、視覚・聴覚の両面での「沈黙の世界」の回復が、今日、霊的(スピリチュアル)な共同善としての「人的環境」(ヒューマンエコロジー)の形成のために必要だろう。というのも、人が真に他人や神と出会いうるのは、沈黙を媒介にしてであるように思われるからである。
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