2014年1月18日土曜日

「無痛文明」と体罰


「社会を構成する個々人の幸福、すなわち彼らの快楽と安全が、立法者が考慮しなければならない目的、それも唯一の目的である…」(ベンタム『道徳および立法の諸原理序説』第3章1より) 

 18世紀の終わりにジェレミー・ベンタムが法の唯一の目的として「快楽と安全」を説いたことは、『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスレー)としての「無痛文明」(森岡正博)の到来をイデオロギーにおいて先取りしていたのかもしれない。確かに現代の「無痛文明」において、苦痛の排除と快楽の増進、不安の排除と計算可能な安全の確保が求められ、そこにおいてはかえって人の真の「生命」の充実が失われつつあるのは確かかもしれない。

 ところで今日の日本では、教育の場面での「体罰」について、人はあまり合理的に問題を考えることが出来なくなりつつあるのではないか。一方で、学校教育法の条文を盾に、一切の体罰に対する否定的な見方、いわば「体罰狩り」が、(文部科学省の体罰に対する否定的な公式見解を背後にもちつつ)マスメディアやそれに影響された世論のうちにみられるように思う。また、今日の自己愛的な「無痛文明」では、体罰はまさしく犯罪行為のごとく考えられる傾向があるように思われる。

 他方で、「ゼロ・トレランス」の掛け声を背景に、体罰を盲目的に肯定する傾向も生じつつあるかもしれない。

 実はこれら両方の方向に共通に、体罰の背後にある、子供に教育さるべき「規範」が何であるのか、不分明になっている事態があるのではないだろうか。それは、一般に教育者の権威の低下にも伏在する現象だと思うが、教育さるべき「規範」の不分明化、またそうした「規範」の元となる倫理的真理についての不可知論が、体罰についての全否定か盲目的な肯定かという両極端な見方を生んでいるように思う。

 翻って、人を真に幸福にする倫理的真理が明らかになれば、そこから教えなければならない「規範」も明らかとなろうし、教育のための方法は、そうした「規範」を教えることに相関したものとして考えることが出来よう。これはまさしく「自然法」と教育の関係の問題である。

 中世のトマス・アクィナスは『神学大全』で、父親的な勧告が通じないほど悪しき性状が常態化した学生には、体罰を加えることも正当なものとみていた。近代的なある種の「啓蒙主義」からすると、まさしくこうした見方は中世的な権威主義の権化として一笑に付されるかもしれないが、私はまともな見解だと思う。

 もちろん、体罰で子供に怪我をさせてはならないのは言うまでもないし、個人的な怒りをぶつけるものであってもならないだろうが(とはいえ教員も人の子として怒りの感情を持つのは当然だと思うが)、合理的な仕方での「教鞭」を用いることについて再考しなければならないのではないだろうか。

 専門的な心理学者等はどう考えているのか興味深いが、素人の印象論として、子供たちが自らリストカットしたり、突発的な凶行に走る事件が起きるようになったことと、体罰の全否定の傾向とは無関係ではないような気がしてならない。素朴に「痛い」と感じる体験は、自己と身体とが一体であることの体験となろうし(「性同一性障害」にはデカルト的二元論が前提されているとも哲学的に言えないか)、何よりも他者に対してやってよいことには限度があることを学ぶ体験にもなるように思う。

 あらゆることを快適に、安全・安心にしようとする「無痛文明」はある種の近代的啓蒙主義の産物であるようにも思われるが、実は人間性をかえってゆがめていないか、真剣に再考が必要であるように思う。

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