2014年1月9日木曜日

常識について


 アリストテレスは『政治学』(1253a)で人間の共同性を成立させるものは「善悪についての共通の知識」であると説いていた。確かに、何が善であり、悪であるのか、基本的な点で共通の確信がない人間同士はお互い同士がエイリアンたらざるを得ないだろう。その意味では、およそ社会生活がなにがしか成立しているならば、実はそこでは共通の基本的な倫理的確信が成立しているはずで、近年の日本におけるような「倫理的な信念は個人個人で違って当たり前」という相対主義的信念は、実は現実から遠いものと言わざるを得ないだろう。

 そもそも、特殊的な相違があることが理解しうるのは、前提として共通の普遍的な事柄が了解されているからであろう。しかし、今日では、個別的特殊性の側のみが強調され、共通の普遍性の側があまり注目されない傾向があるように思う。それが、「常識」よりも、主観的自己愛の世界を重んじる時流と重なっていないだろうか。

 しかし、主観的自己愛の世界は、客観的な現実世界に根差していないので、「常識」と齟齬をきたし、そこであえて自己愛の世界をかたくなに押し通そうとすることが、「クレーマー」や「モンスターペアレント」などと呼ばれる近年評判の悪い人たちを生み出していないだろうか。

 確かに、人間理性には「常識」を持つことへの基本的資質が備わっており、それが家庭生活をはじめ社会生活を通じて発達させられることは確かであろう。しかし、リベラルな社会の「コンパートメント化」の傾向に対しては、改めて人間の共同生活を成立させる基盤となる「常識」の意義について着目し、また教育の場面でそれを養う努力も必要であると思う(というのもどうしても常識なしにはコンパートメントの「破れ」から社会的紛争が生じうるので)。

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