2014年1月5日日曜日

我々自身のなかの…


  名著『我々自身のなかのヒトラー』や『人間とその顔』、『沈黙の世界』『神よりの逃走』『騒音とアトム化の世界』などで知られるスイスの宗教思想家マックス・ピカート(1888~1963年)の思想は、今日でも傾聴すべきものがあるように思う。というよりは、まさしく図らずも現代日本の置かれた状況を的確に診断することとなっていると言えよう。

 1920年代頃の大衆社会の到来以降登場した、新聞やラジオなどマスメディアの支配する世界、世俗化し産業化した雑然とした近代都市、またカリキュラムの内的連関の不分明な教育制度さえ、「無連関人」という自我の統一根拠をもたない人間が生み出し、それらの環境が逆にそうした人間を再生産しているというのがピカートの議論の前提である。そして、ファシズムを支持したのはそうした「水母のような曖昧模糊とした」自我を持つ「無連関人」としての大衆であり、「無連関人」にとっては、どんな恐ろしいことでも何か起こっていることを感じることが出来るならば、そこに自我がぶつかる境界を見出すことが出来、自分が本質的にもつ不安から逃れることが出来るというのである。

 そしてアドルフ・ヒトラーはそうした無連関世界において、ちょうど新聞紙上の雑多な広告群の中に繰り返し登場する練り歯磨きの広告のごとく、ただ繰り返し「露出」することで目立った存在となることで、「無連関人」の心に浸透していったというのである。こうした議論は、まさしく現代の日本の置かれた状況にそのまま当てはめることが出来、「我々自身のなかのヒトラー」ならぬ、「我々自身のなかのx」と繰り返し語ることが出来るだろう。特にIT化により飛躍的に社会に流通する情報が増大し、それらの無連関な情報群に晒され続けている我々にとって。

 翻って「無連関」化はなぜ生じたか問えば、西洋に関して言えば、啓蒙主義時代以降、世俗化の流れの中で、キリスト教という文化全体の統一原理が失われ、文化の各領域が断片化・自律化し、それらの全体的布置や最終的意味づけが不分明化していったということだろうか。日本に関して言えば、明治以降の急速な近代化の流れの中で、そうした近代西洋文明を急激に取り入れた中で抱えた無理が、そうした状況を生んでいる面もあるのかもしれない。

 無連関世界において、人間らしさが失われると、人間の顔が失われてゆくというピカートの指摘は、最近の日本の世間で肌で感じる感覚からすると、まさしく今の我々の事柄であるように思う。今日、この人間の世界の文化を究極的に基礎づける原理はどこに見出すことが出来るだろうか…。

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