2014年1月4日土曜日

「ポルノの権利」?



 短大の「憲法」の授業で使っている入門的教科書に「ポルノの権利」なる章があって、以前から面食らっている。著者によると刑法175条「わいせつ物頒布罪」は憲法上の知る権利を侵害するので、憲法違反の疑いがあるとのことである。

 一口に「ポルノ」とはいっても、さしあたり、小説や漫画などの純然たるファンタジーの話と、アダルトビデオや写真などリアルな媒体とは区別すべきだろう。後者の場合、その制作の場面での女優となる女性への性暴力とか、リアルな「他者危害の」問題をも孕んでもいるように思う。この点で、リベラルな立場をとるフェミニストの人たちも、もっと怒ってもよさそうなものなのに、”APP研“と呼ばれるグループの人たちなどを除いて、(私の不勉強か児童ポルノを除き)そういう話はあまり聞いたことがない(被写体となる女性など本人の自己責任の問題と考えられているのだろうか)。

 かつて河合隼雄氏は売春は「魂に悪い」と言ったそうだが、ポルノ視聴もあるいは「魂に悪い」のかもしれない。そういう意味では、あるゆるポルノは憂慮さるべきものかもしれない(社会環境としての「共同善」を問題にする社会倫理学者ヨハネス・メスナーはポルノの広範な流通には批判的である)。しかし、ポルノ視聴の精神的悪影響について研究している心理学者の話などは、日本では聞いたことがない(研究している人がいてもよさそうなものなのに)。

ここで、「ポルノ(視聴)の権利」を考察するには、まずそもそも権利とは何かを考察せねばならないが、権利とはある人に、その人が自らの個別的な「本性」を実現するために帰属する諸権限の総体と、自然法論の立場からはさしあたり定義できるだろう。それゆえ、その人の真の自己実現のためにはならないことは権利とならないはずである。

 ポルノの問題を考えるならば、人間本性の内にある「性の目的」について考えねばならない。この問題は、同性婚の問題を考える際にも考えねばならない厄介な問題だと思うが、理性的存在である人間の性には創造的な(ある意味での)「遊び」の要素があるものの、その本質的な目的が生殖にある点は、(イデオロギーではなく)人間本性の構造に由来する事実であると思う。そこから言うならば、法的にみてポルノ視聴の「権利」はどうしても導出できないし、若者や独身者の視聴について一定の寛容が認められるにすぎないだろう。

 加えて、ポルノ制作がアンダーグラウンドな産業になっていることや、先の制作の場面での性暴力の問題など含めて考えると、(小説や漫画などではないリアルな)ポルノ制作や流通についてはより厳しい見方をせざるを得ないのではないだろうか。チャタレイ事件最高裁判決でいわれた、社会のモラルに対する「臨床医的役割」を、今日、誰が果たしうるだろうか。

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