2014年1月9日木曜日

長寿と善き生


 今日、高齢化社会の到来が言われて久しい。ところで、旧約聖書では長寿は神の祝福の結果と考えられているようだ(アダムとエヴァの歴史以前の原初物語からアブラハムの召命の歴史物語に移行する期間に登場する人物の寿命は非常識に長く記されている)。確かに、神との関係を、信仰の徳において十全に生きた人の寿命が長いのは、恵みの賜物なのかもしれない。

 しかし、今日の、近代的な医療制度の発達に伴う人間の平均寿命の延長は、いかに考えたらよいだろうか。倫理学の立場から言うと、「善く生きる」ことと、(たんなる)長生きは区別されねばならないと思う。「善く生きる」とは有徳に生きることであり、理性の秩序に属する理性的善の事柄であるが、たんに寿命が長いことは、自然の秩序に属する自然的善の事柄であろう。もちろん、「自然的」ではあっても、善である以上、長生きは善いことである。しかし、例えば、悪徳の人の長生きについては、いかに考えるべきだろうか?

 実は、善く有徳に生きるという理性の秩序の事柄と、長生きするという自然の秩序の事柄は、いわば次元の違う事柄であり、イコールではない。それゆえ、たとい短い人生であっても、善く、有徳に(特に愛徳をもって)生きた人の人生は「善き生」であったと言えようし、逆に、単に長生きをしても、悪徳の人の人生は、そうは言えないだろう。

 今日、生命倫理について論じられる際、こうした点について考えられているだろうか。有徳さとは何か、「善き生」とは何かわかりづらい今日、死生の意味もわかりづらくなっているように思う。

 しかし、ともかく人間は多く、死ぬことを恐れる。永生の可能性は、人間の生命が存在論的に言って与えられたものにすぎないならば、生命の与え主との関係の如何に懸っているのであろう。ギリシア的な「魂の不死」か、ユダヤ的な「復活」か、仏教的な「輪廻転生」か、死後の物語は多様であるけれども。

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