2014年1月5日日曜日

魂の浄化


 これから述べることは、私も未だどう考えてよいのか、模索中のことである。個人的な話であるが、私は駅や道路や電車の車内など、公共の場で、他人の「気」というか、私の言葉でいうと、「魂」をはっきり感じることが多い。それも、たいていは、非常に淀んだ嫌なものとして感じることが多いのである。インターネットを見ると、同じように感じる人がいるらしく、そういう人は外出をなるべく控えることもあるという。個人的に良くわかるのだが、仕事などで外出しない訳にもいかないので、毎回嫌な思いをこらえている。このことは、そうした感受性がないと分からないと思うので、残念ながら分かる人にしか分からない話なのだろう。

 しかし、毎回外出して嫌な思いをするたびに思うのは、いまの多くの日本の人々の間で、正直なところ「魂」のあり方が、かなりまずいものになっているのではないかということである。古代ギリシアのプラトンの『ソクラテスの弁明』では、陪審員としてのアテナイ市民たちに、自分の欲望追求ではなく「魂をすぐれたものにすること」の意義を説きつつ死刑に服したソクラテスの最後の一場面が描かれているが、人間の「魂」のあり方について、今日どれだけの人が考えているだろうか。

 「魂」の存在を感じること、また「魂」について哲学的に考えること、「魂」を善く育てる実践的方策について考えること、こうしたことが今日必要であるように思うし、現代日本の文明のあり方の最大の欠陥は、あるいは人間の「魂」の存在を問題にしていないことではないかとも思う。

 小生はキリスト信者(カトリック)であるが、教会の聖櫃のある聖堂で、ロザリオの祈りなど唱えていると、自分の道徳的欠陥に由来する「魂」の汚濁が癒されてゆくように感じるし(他人にかけた迷惑はもちろんそれでは償えないが)、世間でこうむった「魂」の疲れが癒されるように感じる。いまの日本に必要なのは、個人の祈りのエートスであり、またそうした個人の祈りを支える、社会的で霊的(スピリチュアル)な共同善とでも言うべき「人的環境(ヒューマン・エコロジー)」(ヨハネ・パウロ2世『100周年回勅』より)ではないかと、私の立場からは思えてしまう。

 こうしたことを、どう学問的に考えてゆけるか、以前から模索している。特に、倫理と霊性の関係について考察を深められるような手掛かりを探している。プラトン=ソクラテスや、十字架のヨハネのような神秘家は手掛かりになりそうだけれども。

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