2014年1月5日日曜日

真理と権威


 本来、真理には権威があるはずである。アウグスティヌスはたしか、多くの騙す者がいるに関わらず、騙されることを欲する者は誰もいない、と述べていた。人間の理性は、真理を渇望し、真理において自らの充足を見出す。それゆえ、人間理性にとって真理は本質的に権威を持つはずである。

 今日、権威の失墜が言われて久しいように思うが、その背後にあるのは、真理についての不可知論、また真理というものが人間の人生の目的として占める意義の不分明化ということであろう。そもそも、日本の近代教育制度において、真理は人間存在全体を充足し、完成させるような救済論的意味を持つものとして捉えられていないのではないか。そこでは、知識が断片化され、相互の関連や、部分的知識の意義が不分明化し、知識は学ぶ者にとって上級の学校に進むために学ばねばならぬ何かであるように捉えられる傾向があるのではないだろうか。

 学校の世界においても、学級崩壊やそれに近い事態が近年に頻発しているのは、まさしく近代以来の日本の学校制度で学ばれる知識の意義が不分明化し、またそれに伴い教師というものに対する世間の態度が変化していることも原因としてあるように思う。自分にはまだ分からないけれど、何か自分を満たしてくれるような知識を教授してくれるように思える存在に対して、人は権威を認め、その人の言葉を聞こうとするであろう。

 真理に対するシニカルな態度や、結局のこところ何が真理であるか分からないという不可知論がまさしく知的世界の混乱の根にあるように思う。そして、そうした真理不在の状況で「神」と化すのが、個人の主観的自己愛の世界である。所謂「上から目線」なる言葉はそうした世界で登場していると言えるだろう。キリスト教の啓示の世界では、ピラトの「真理とは何か」という問いに対して「見よ、この人だ」という答えが与えられているが、人間理性が自らの究極的充足のために理論的かつ実践的な真理を見出す方策を哲学は再考する必要があるのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿