日本には一つの学問の分野として「社会倫理学」は根づいていないし、専門の学会もないし、また「社会倫理学」を専門と看板を掲げてる研究者もほとんどいない。のみならず、「社会倫理学」とは何であるのか、そもそも一般に知られていないように思う。
「社会倫理学」はドイツ語圏の、特にカトリック思想世界では”Sozialethik”として19世紀末のレオ13世教皇の回勅”Rerum Novarum”以来の伝統を持って存在しているし、英語圏でも”Social Ethics”という表題の著作はそれなりに存在しているように思う。しかし、日本ではそうした伝統は基本的にない。
「社会倫理学」の学としての固有対象は、社会の「共同善」(common good)である。つまり、社会という存在者が個人とは別に、個人の存在に依りながらも存在し、それが一つの固有の作用を持つと同時に、それ自らの「存在」の充実が倫理的課題となるという、哲学的前提に立って社会倫理学は存在している。社会の存在の担い手は個人であるので、「共同善」の内実は最終的には個々の人格の「存在」の充足であることになるが、それに向けて、社会という人間間の関係性およびさまざまの制度にも固有の課題があり、そうした課題をいかに果たすのか、これが社会倫理学の課題であると言えよう。言い換えれば、(学生向きの説明をするならば)水槽の中のメダカのために、いかに良く水質を保つか、これが社会倫理学の対象である「共同善」の課題であるとも(大雑把には)いえよう。
「社会問題」についての評論家は多いし、多くの人が玄人素人を問わず、「社会問題」について日々論評している。また「社会病理」について学的に論じられることがあるにも関わらず、「社会倫理」について論じられないのは、(国家および国家間も含み)「社会」という公共性の枠組みにおいて、「善」やそれを実現するための「規範」について現代日本では考えられなくなっているということであろう(また伝統的なアリストテレス以来の正義の三分法のうち、「共同善」の配分と交換に関わる配分的正義と交換的正義について語っても、「共同善」自体の成立を問題にする一般的正義ないし法的正義を問題にしない傾向も同時に現れている)。
その背景には、倫理についての個人主義的な見方、および相対主義的な見方があるように思われる。倫理に関する個人主義的な見方とは、倫理の問題を個人の善の実現とみる見方であり、個人を超えた社会・共同体の「共同善」を問題にしないことであり(それは「公共の福祉」を個人権間の調整原理と見る通説的な憲法学説にも表れているように思う)、相対主義的見方とは、そうした個人単位で倫理を捉え、公共的な次元での普遍的な倫理の成立を認めないという(実は非常に奇妙な)見方である。
以前にも書いたように、立法や行政による具体的な政策の実行においては公共的な価値判断をしなければならないし、社会生活が成立するためには最低限の共通の「常識」が成立していなければならないので(また刑法学では個人とは区別される社会や国家の「法益」が実は語られてもいる)、こうした個人主義的・相対主義的な見方は、実は現実を離れたある種のイデオロギーであるとさえ言えるように思う。
また社会問題、社会病理について考え、人々が「これはおかしい」と感じうる背景には、実は公共的・共同体的な次元での普遍的価値の把握が成立しているはずで、社会問題や社会病理を論ずるには、規範的次元で「社会倫理学」が前提として欠かせないはずである。
では、社会倫理学はいかにして価値や規範の問題について、公共的・共同体的次元で考えるのか?それは人間の特殊的差異の根底にある、普遍的本性に由来する「自然法」の観点からとしか言いえないように私は思う。社会倫理を基礎づけ、また法共同体=国家の内部で普遍的に強制しうる法の基盤となるのは、少なくとも最低限の普遍的内容を持つ「自然法」という規範ではないだろうか(ドイツでは討議倫理学からのアプローチもあるが、普遍的規範の内実は人間本性という実在的基盤からしか由来しえないと思う)。
では、社会倫理学はいかにして価値や規範の問題について、公共的・共同体的次元で考えるのか?それは人間の特殊的差異の根底にある、普遍的本性に由来する「自然法」の観点からとしか言いえないように私は思う。社会倫理を基礎づけ、また法共同体=国家の内部で普遍的に強制しうる法の基盤となるのは、少なくとも最低限の普遍的内容を持つ「自然法」という規範ではないだろうか(ドイツでは討議倫理学からのアプローチもあるが、普遍的規範の内実は人間本性という実在的基盤からしか由来しえないと思う)。
こうした議論は、リベラリズム全盛がいまだ続く世の中では受けが悪いが、リベラリズムのはらむ内的矛盾はこれまでにも記したところである。今後、日本と世界の将来を真剣に考える「社会倫理学者」が一定の割合でこの国に存在し、公共的な議論を行うことが必須であるように思われるし、そのために学問分野として「社会倫理学」が社会的に認知されるようにこれを普及させ、また「社会倫理学」の方法論や課題について議論と共有が必要であるように思う。そのためには「日本社会倫理学会」を立ち上げねばならないだろう。