2014年1月23日木曜日

「社会倫理学」の必要性について

 日本には一つの学問の分野として「社会倫理学」は根づいていないし、専門の学会もないし、また「社会倫理学」を専門と看板を掲げてる研究者もほとんどいない。のみならず、「社会倫理学」とは何であるのか、そもそも一般に知られていないように思う。

 「社会倫理学」はドイツ語圏の、特にカトリック思想世界では”Sozialethik”として19世紀末のレオ13世教皇の回勅”Rerum Novarum”以来の伝統を持って存在しているし、英語圏でも”Social Ethics”という表題の著作はそれなりに存在しているように思う。しかし、日本ではそうした伝統は基本的にない。

 「社会倫理学」の学としての固有対象は、社会の「共同善」(common good)である。つまり、社会という存在者が個人とは別に、個人の存在に依りながらも存在し、それが一つの固有の作用を持つと同時に、それ自らの「存在」の充実が倫理的課題となるという、哲学的前提に立って社会倫理学は存在している。社会の存在の担い手は個人であるので、「共同善」の内実は最終的には個々の人格の「存在」の充足であることになるが、それに向けて、社会という人間間の関係性およびさまざまの制度にも固有の課題があり、そうした課題をいかに果たすのか、これが社会倫理学の課題であると言えよう。言い換えれば、(学生向きの説明をするならば)水槽の中のメダカのために、いかに良く水質を保つか、これが社会倫理学の対象である「共同善」の課題であるとも(大雑把には)いえよう。

 「社会問題」についての評論家は多いし、多くの人が玄人素人を問わず、「社会問題」について日々論評している。また「社会病理」について学的に論じられることがあるにも関わらず、「社会倫理」について論じられないのは、(国家および国家間も含み)「社会」という公共性の枠組みにおいて、「善」やそれを実現するための「規範」について現代日本では考えられなくなっているということであろう(また伝統的なアリストテレス以来の正義の三分法のうち、「共同善」の配分と交換に関わる配分的正義と交換的正義について語っても、「共同善」自体の成立を問題にする一般的正義ないし法的正義を問題にしない傾向も同時に現れている)

 その背景には、倫理についての個人主義的な見方、および相対主義的な見方があるように思われる。倫理に関する個人主義的な見方とは、倫理の問題を個人の善の実現とみる見方であり、個人を超えた社会・共同体の「共同善」を問題にしないことであり(それは「公共の福祉」を個人権間の調整原理と見る通説的な憲法学説にも表れているように思う)、相対主義的見方とは、そうした個人単位で倫理を捉え、公共的な次元での普遍的な倫理の成立を認めないという(実は非常に奇妙な)見方である。

 以前にも書いたように、立法や行政による具体的な政策の実行においては公共的な価値判断をしなければならないし、社会生活が成立するためには最低限の共通の「常識」が成立していなければならないので(また刑法学では個人とは区別される社会や国家の「法益」が実は語られてもいる)、こうした個人主義的・相対主義的な見方は、実は現実を離れたある種のイデオロギーであるとさえ言えるように思う。

 また社会問題、社会病理について考え、人々が「これはおかしい」と感じうる背景には、実は公共的・共同体的な次元での普遍的価値の把握が成立しているはずで、社会問題や社会病理を論ずるには、規範的次元で「社会倫理学」が前提として欠かせないはずである。

 では、社会倫理学はいかにして価値や規範の問題について、公共的・共同体的次元で考えるのか?それは人間の特殊的差異の根底にある、普遍的本性に由来する「自然法」の観点からとしか言いえないように私は思う。社会倫理を基礎づけ、また法共同体=国家の内部で普遍的に強制しうる法の基盤となるのは、少なくとも最低限の普遍的内容を持つ「自然法」という規範ではないだろうか(ドイツでは討議倫理学からのアプローチもあるが、普遍的規範の内実は人間本性という実在的基盤からしか由来しえないと思う)。

 こうした議論は、リベラリズム全盛がいまだ続く世の中では受けが悪いが、リベラリズムのはらむ内的矛盾はこれまでにも記したところである。今後、日本と世界の将来を真剣に考える「社会倫理学者」が一定の割合でこの国に存在し、公共的な議論を行うことが必須であるように思われるし、そのために学問分野として「社会倫理学」が社会的に認知されるようにこれを普及させ、また「社会倫理学」の方法論や課題について議論と共有が必要であるように思う。そのためには「日本社会倫理学会」を立ち上げねばならないだろう。

2014年1月18日土曜日

「無痛文明」と体罰


「社会を構成する個々人の幸福、すなわち彼らの快楽と安全が、立法者が考慮しなければならない目的、それも唯一の目的である…」(ベンタム『道徳および立法の諸原理序説』第3章1より) 

 18世紀の終わりにジェレミー・ベンタムが法の唯一の目的として「快楽と安全」を説いたことは、『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスレー)としての「無痛文明」(森岡正博)の到来をイデオロギーにおいて先取りしていたのかもしれない。確かに現代の「無痛文明」において、苦痛の排除と快楽の増進、不安の排除と計算可能な安全の確保が求められ、そこにおいてはかえって人の真の「生命」の充実が失われつつあるのは確かかもしれない。

 ところで今日の日本では、教育の場面での「体罰」について、人はあまり合理的に問題を考えることが出来なくなりつつあるのではないか。一方で、学校教育法の条文を盾に、一切の体罰に対する否定的な見方、いわば「体罰狩り」が、(文部科学省の体罰に対する否定的な公式見解を背後にもちつつ)マスメディアやそれに影響された世論のうちにみられるように思う。また、今日の自己愛的な「無痛文明」では、体罰はまさしく犯罪行為のごとく考えられる傾向があるように思われる。

 他方で、「ゼロ・トレランス」の掛け声を背景に、体罰を盲目的に肯定する傾向も生じつつあるかもしれない。

 実はこれら両方の方向に共通に、体罰の背後にある、子供に教育さるべき「規範」が何であるのか、不分明になっている事態があるのではないだろうか。それは、一般に教育者の権威の低下にも伏在する現象だと思うが、教育さるべき「規範」の不分明化、またそうした「規範」の元となる倫理的真理についての不可知論が、体罰についての全否定か盲目的な肯定かという両極端な見方を生んでいるように思う。

 翻って、人を真に幸福にする倫理的真理が明らかになれば、そこから教えなければならない「規範」も明らかとなろうし、教育のための方法は、そうした「規範」を教えることに相関したものとして考えることが出来よう。これはまさしく「自然法」と教育の関係の問題である。

 中世のトマス・アクィナスは『神学大全』で、父親的な勧告が通じないほど悪しき性状が常態化した学生には、体罰を加えることも正当なものとみていた。近代的なある種の「啓蒙主義」からすると、まさしくこうした見方は中世的な権威主義の権化として一笑に付されるかもしれないが、私はまともな見解だと思う。

 もちろん、体罰で子供に怪我をさせてはならないのは言うまでもないし、個人的な怒りをぶつけるものであってもならないだろうが(とはいえ教員も人の子として怒りの感情を持つのは当然だと思うが)、合理的な仕方での「教鞭」を用いることについて再考しなければならないのではないだろうか。

 専門的な心理学者等はどう考えているのか興味深いが、素人の印象論として、子供たちが自らリストカットしたり、突発的な凶行に走る事件が起きるようになったことと、体罰の全否定の傾向とは無関係ではないような気がしてならない。素朴に「痛い」と感じる体験は、自己と身体とが一体であることの体験となろうし(「性同一性障害」にはデカルト的二元論が前提されているとも哲学的に言えないか)、何よりも他者に対してやってよいことには限度があることを学ぶ体験にもなるように思う。

 あらゆることを快適に、安全・安心にしようとする「無痛文明」はある種の近代的啓蒙主義の産物であるようにも思われるが、実は人間性をかえってゆがめていないか、真剣に再考が必要であるように思う。

2014年1月12日日曜日

権威主義について


 最近、気のせいか、国家権力やその他の社会権力に自分を心理的に同一化する人が増えているように感じる。典型的には「ネット右翼」がそれだと思うが、国家権力や社会権力を批判する「左翼」の言説は今日では分が悪いのは確かであろう。そうした同一化をしているような人こそ、本来、現代社会の階級性を批判する左翼思想の持ち主であっても不思議ではないのだけれども。

 こうした傾向の背景にあるのは、やはりかつてE.フロムがファシズム登場の社会的前提として指摘した、大衆社会における個人の孤立ということであろうか。今日のグローバル競争社会において、個人の雇用や社会的絆が不安定化していることや、そこで個人が無力感を感じていることが、個人の孤立の背後にあろう。また生きる意味や目的の不分明化ということが、社会的閉塞感を生み出し、閉塞感を打破してくれそうな強い力を求めているのかもしれない。さらには、残酷な競争社会において、心理的に「負け組」にならないための、いわば「防衛機制」として、自己と権力との同一視が生じているのかもしれない(これらすべてにおいて、人間の存在様態=魂のあり方の質料化が生じているのも確かであろう。すなわち、自己の魂において露わである自己の惡から逃避するために、権力と自己を同一視しようとしているのかもしれない―自己の魂の問題からはそうした仕方では逃れられないのだけれども)。

 E.フロムがいう「権威主義的パーソナリティ」の人が、今日、自己を国家権力や社会権力と同一視し、「ネット右翼」と化しているのであろうが、残念ながら、自らの孤独や不安、無意味感を解消するためのそうした行動は、そうした人たちの社会的不安定を現実的に解消する力とはならないし、残酷なグローバル競争社会の中での、「ガス抜き」にしかならないであろう。そして、そうした「ガス抜き」は、一部の支配層にとっては好都合であろう。自分たちが利用したい大衆の不満を逸らし、しかもそのエネルギーが、自分たちの立場を批判する「左翼」に向かってくれるのだから。

 根本的には、今日ふたたび、生きる意味や目的が再発見されねばならないし、経済社会や文明全体を人間の「よき生」に結び付けて考え直さねばならないように思う。そして「よき生」について考えるためには、人間の「魂」のあり方について考えねばならないし、個人の生きる社会的な枠組みと、その中での有徳な生について再考せねばならないだろう。また、グローバルな経済成長競争自体が、自己目的化していることが本末転倒であるのは言うまでもない。

 そして、「よき生」において問題になる、生きる意味や目的の再発見のためには、今日ふたたび、倫理的な真理についてまじめに考えねばならないだろう。権威主義においては、権力に個人が盲目的に自己を同一化しようとし、権力が何を実現しようとしているのか問題にしない。その背後には道徳的不可知論・相対主義が伏在してもいる。真理自体の持つ権威は、不可知論的でアモラルな権威主義とは全く異なるはずである。

人間のサイボーグ化?


 人間の人体と自動制御の機械の融合物を「サイボーグ」と呼ぶらしいが、サイボーグは今日、人工臓器のような姿のみならず、ある意味で人間実存そのものとなりつつあるようにも思われる。例えば、いわゆる「スマホ歩き」など、私には「サイボーグ」そのもののようにも見える。

 その背景には、もちろん、IT技術が今日の資本主義社会において、「成長」の牽引力であり続け、加えて、いわば資本主義の最後のフロンティアとも言える人体をまで「植民地」と化そうとする、資本主義システムの働きがあろう。実際、「ウェアラブル」と呼ばれる、身に着けるタイプのIT機器が開発されているようであり、今後、ますます人間のサイボーグ化は進む可能性がある。

 最近は下火になったらしい茶髪文化、再生医療や人工臓器(この2つの評価は慎重でなければならないだろうが)、「人体部品ビジネス」など、人体そのものの商品化と、IT機器による人間のサイボーグ化、人間というものの資本主義システムによる「植民地化」はとどまるところを知らないようにも見える。「聖域」(サンクチュアリ)をいかに倫理と法制でもって守って行くか、「人間の尊厳」の擁護のために、課題となるように思う。もっとも、社会の大部分の人が、サイボーグ化した人間に違和感を感じなくなると、もう止めようがないだろうが。

2014年1月9日木曜日

常識について


 アリストテレスは『政治学』(1253a)で人間の共同性を成立させるものは「善悪についての共通の知識」であると説いていた。確かに、何が善であり、悪であるのか、基本的な点で共通の確信がない人間同士はお互い同士がエイリアンたらざるを得ないだろう。その意味では、およそ社会生活がなにがしか成立しているならば、実はそこでは共通の基本的な倫理的確信が成立しているはずで、近年の日本におけるような「倫理的な信念は個人個人で違って当たり前」という相対主義的信念は、実は現実から遠いものと言わざるを得ないだろう。

 そもそも、特殊的な相違があることが理解しうるのは、前提として共通の普遍的な事柄が了解されているからであろう。しかし、今日では、個別的特殊性の側のみが強調され、共通の普遍性の側があまり注目されない傾向があるように思う。それが、「常識」よりも、主観的自己愛の世界を重んじる時流と重なっていないだろうか。

 しかし、主観的自己愛の世界は、客観的な現実世界に根差していないので、「常識」と齟齬をきたし、そこであえて自己愛の世界をかたくなに押し通そうとすることが、「クレーマー」や「モンスターペアレント」などと呼ばれる近年評判の悪い人たちを生み出していないだろうか。

 確かに、人間理性には「常識」を持つことへの基本的資質が備わっており、それが家庭生活をはじめ社会生活を通じて発達させられることは確かであろう。しかし、リベラルな社会の「コンパートメント化」の傾向に対しては、改めて人間の共同生活を成立させる基盤となる「常識」の意義について着目し、また教育の場面でそれを養う努力も必要であると思う(というのもどうしても常識なしにはコンパートメントの「破れ」から社会的紛争が生じうるので)。

長寿と善き生


 今日、高齢化社会の到来が言われて久しい。ところで、旧約聖書では長寿は神の祝福の結果と考えられているようだ(アダムとエヴァの歴史以前の原初物語からアブラハムの召命の歴史物語に移行する期間に登場する人物の寿命は非常識に長く記されている)。確かに、神との関係を、信仰の徳において十全に生きた人の寿命が長いのは、恵みの賜物なのかもしれない。

 しかし、今日の、近代的な医療制度の発達に伴う人間の平均寿命の延長は、いかに考えたらよいだろうか。倫理学の立場から言うと、「善く生きる」ことと、(たんなる)長生きは区別されねばならないと思う。「善く生きる」とは有徳に生きることであり、理性の秩序に属する理性的善の事柄であるが、たんに寿命が長いことは、自然の秩序に属する自然的善の事柄であろう。もちろん、「自然的」ではあっても、善である以上、長生きは善いことである。しかし、例えば、悪徳の人の長生きについては、いかに考えるべきだろうか?

 実は、善く有徳に生きるという理性の秩序の事柄と、長生きするという自然の秩序の事柄は、いわば次元の違う事柄であり、イコールではない。それゆえ、たとい短い人生であっても、善く、有徳に(特に愛徳をもって)生きた人の人生は「善き生」であったと言えようし、逆に、単に長生きをしても、悪徳の人の人生は、そうは言えないだろう。

 今日、生命倫理について論じられる際、こうした点について考えられているだろうか。有徳さとは何か、「善き生」とは何かわかりづらい今日、死生の意味もわかりづらくなっているように思う。

 しかし、ともかく人間は多く、死ぬことを恐れる。永生の可能性は、人間の生命が存在論的に言って与えられたものにすぎないならば、生命の与え主との関係の如何に懸っているのであろう。ギリシア的な「魂の不死」か、ユダヤ的な「復活」か、仏教的な「輪廻転生」か、死後の物語は多様であるけれども。

2014年1月6日月曜日

沈黙の世界


 「現代世界の状態、いや、生活全体が病んでいるのだ。もし私が医者であって、どうすればよいかと相談をうければ、私はこう答えるだろう…『沈黙を創れ!』」(マックス・ピカート『沈黙の世界』より)

 中島義道氏の著作にたしか『うるさい日本の私』というのがあったが、確かに今の日本、街に出ればどこもかしこも音楽や活字メッセージなどに溢れている。そうした状況においては、それを嫌う人も「囚われの聴衆」とならざるを得ない。キリスト信者の私が特に気になるのは、教会でミサにあずるとき、聖堂の中で私語をする人が多くいることである。本来、そうした場所は、沈黙のうちで、神と出会うために造られているように思うが、神様よりも1週間ぶりに会った仲間とさっそく雑談したいのだろうか。

 また「夜回り先生」こと水谷修氏は「夜眠らない子供」「夜眠られない子供」について書いておられるが、現代の都市自体が、夜間の沈黙を失い、ひいては人間の心の平穏を失わせているのかもしれない。最近、東京の「二十四時間都市化」が唱えられているらしいが、とても賛成できない(水谷氏も講演で猪瀬知事を批判していた)。

 資本主義システムはあらゆる「生活世界」をいわばミダス王の黄金の手でもって開発し、近年では人体までもがその対象となりつつあるが、大自然のうちにあるはずの、やさしい沈黙も犠牲になっているということだろう。

 ピカートの言うとおり、視覚・聴覚の両面での「沈黙の世界」の回復が、今日、霊的(スピリチュアル)な共同善としての「人的環境」(ヒューマンエコロジー)の形成のために必要だろう。というのも、人が真に他人や神と出会いうるのは、沈黙を媒介にしてであるように思われるからである。

2014年1月5日日曜日

我々自身のなかの…


  名著『我々自身のなかのヒトラー』や『人間とその顔』、『沈黙の世界』『神よりの逃走』『騒音とアトム化の世界』などで知られるスイスの宗教思想家マックス・ピカート(1888~1963年)の思想は、今日でも傾聴すべきものがあるように思う。というよりは、まさしく図らずも現代日本の置かれた状況を的確に診断することとなっていると言えよう。

 1920年代頃の大衆社会の到来以降登場した、新聞やラジオなどマスメディアの支配する世界、世俗化し産業化した雑然とした近代都市、またカリキュラムの内的連関の不分明な教育制度さえ、「無連関人」という自我の統一根拠をもたない人間が生み出し、それらの環境が逆にそうした人間を再生産しているというのがピカートの議論の前提である。そして、ファシズムを支持したのはそうした「水母のような曖昧模糊とした」自我を持つ「無連関人」としての大衆であり、「無連関人」にとっては、どんな恐ろしいことでも何か起こっていることを感じることが出来るならば、そこに自我がぶつかる境界を見出すことが出来、自分が本質的にもつ不安から逃れることが出来るというのである。

 そしてアドルフ・ヒトラーはそうした無連関世界において、ちょうど新聞紙上の雑多な広告群の中に繰り返し登場する練り歯磨きの広告のごとく、ただ繰り返し「露出」することで目立った存在となることで、「無連関人」の心に浸透していったというのである。こうした議論は、まさしく現代の日本の置かれた状況にそのまま当てはめることが出来、「我々自身のなかのヒトラー」ならぬ、「我々自身のなかのx」と繰り返し語ることが出来るだろう。特にIT化により飛躍的に社会に流通する情報が増大し、それらの無連関な情報群に晒され続けている我々にとって。

 翻って「無連関」化はなぜ生じたか問えば、西洋に関して言えば、啓蒙主義時代以降、世俗化の流れの中で、キリスト教という文化全体の統一原理が失われ、文化の各領域が断片化・自律化し、それらの全体的布置や最終的意味づけが不分明化していったということだろうか。日本に関して言えば、明治以降の急速な近代化の流れの中で、そうした近代西洋文明を急激に取り入れた中で抱えた無理が、そうした状況を生んでいる面もあるのかもしれない。

 無連関世界において、人間らしさが失われると、人間の顔が失われてゆくというピカートの指摘は、最近の日本の世間で肌で感じる感覚からすると、まさしく今の我々の事柄であるように思う。今日、この人間の世界の文化を究極的に基礎づける原理はどこに見出すことが出来るだろうか…。

真理と権威


 本来、真理には権威があるはずである。アウグスティヌスはたしか、多くの騙す者がいるに関わらず、騙されることを欲する者は誰もいない、と述べていた。人間の理性は、真理を渇望し、真理において自らの充足を見出す。それゆえ、人間理性にとって真理は本質的に権威を持つはずである。

 今日、権威の失墜が言われて久しいように思うが、その背後にあるのは、真理についての不可知論、また真理というものが人間の人生の目的として占める意義の不分明化ということであろう。そもそも、日本の近代教育制度において、真理は人間存在全体を充足し、完成させるような救済論的意味を持つものとして捉えられていないのではないか。そこでは、知識が断片化され、相互の関連や、部分的知識の意義が不分明化し、知識は学ぶ者にとって上級の学校に進むために学ばねばならぬ何かであるように捉えられる傾向があるのではないだろうか。

 学校の世界においても、学級崩壊やそれに近い事態が近年に頻発しているのは、まさしく近代以来の日本の学校制度で学ばれる知識の意義が不分明化し、またそれに伴い教師というものに対する世間の態度が変化していることも原因としてあるように思う。自分にはまだ分からないけれど、何か自分を満たしてくれるような知識を教授してくれるように思える存在に対して、人は権威を認め、その人の言葉を聞こうとするであろう。

 真理に対するシニカルな態度や、結局のこところ何が真理であるか分からないという不可知論がまさしく知的世界の混乱の根にあるように思う。そして、そうした真理不在の状況で「神」と化すのが、個人の主観的自己愛の世界である。所謂「上から目線」なる言葉はそうした世界で登場していると言えるだろう。キリスト教の啓示の世界では、ピラトの「真理とは何か」という問いに対して「見よ、この人だ」という答えが与えられているが、人間理性が自らの究極的充足のために理論的かつ実践的な真理を見出す方策を哲学は再考する必要があるのかもしれない。

魂の浄化


 これから述べることは、私も未だどう考えてよいのか、模索中のことである。個人的な話であるが、私は駅や道路や電車の車内など、公共の場で、他人の「気」というか、私の言葉でいうと、「魂」をはっきり感じることが多い。それも、たいていは、非常に淀んだ嫌なものとして感じることが多いのである。インターネットを見ると、同じように感じる人がいるらしく、そういう人は外出をなるべく控えることもあるという。個人的に良くわかるのだが、仕事などで外出しない訳にもいかないので、毎回嫌な思いをこらえている。このことは、そうした感受性がないと分からないと思うので、残念ながら分かる人にしか分からない話なのだろう。

 しかし、毎回外出して嫌な思いをするたびに思うのは、いまの多くの日本の人々の間で、正直なところ「魂」のあり方が、かなりまずいものになっているのではないかということである。古代ギリシアのプラトンの『ソクラテスの弁明』では、陪審員としてのアテナイ市民たちに、自分の欲望追求ではなく「魂をすぐれたものにすること」の意義を説きつつ死刑に服したソクラテスの最後の一場面が描かれているが、人間の「魂」のあり方について、今日どれだけの人が考えているだろうか。

 「魂」の存在を感じること、また「魂」について哲学的に考えること、「魂」を善く育てる実践的方策について考えること、こうしたことが今日必要であるように思うし、現代日本の文明のあり方の最大の欠陥は、あるいは人間の「魂」の存在を問題にしていないことではないかとも思う。

 小生はキリスト信者(カトリック)であるが、教会の聖櫃のある聖堂で、ロザリオの祈りなど唱えていると、自分の道徳的欠陥に由来する「魂」の汚濁が癒されてゆくように感じるし(他人にかけた迷惑はもちろんそれでは償えないが)、世間でこうむった「魂」の疲れが癒されるように感じる。いまの日本に必要なのは、個人の祈りのエートスであり、またそうした個人の祈りを支える、社会的で霊的(スピリチュアル)な共同善とでも言うべき「人的環境(ヒューマン・エコロジー)」(ヨハネ・パウロ2世『100周年回勅』より)ではないかと、私の立場からは思えてしまう。

 こうしたことを、どう学問的に考えてゆけるか、以前から模索している。特に、倫理と霊性の関係について考察を深められるような手掛かりを探している。プラトン=ソクラテスや、十字架のヨハネのような神秘家は手掛かりになりそうだけれども。

2014年1月4日土曜日

「ポルノの権利」?



 短大の「憲法」の授業で使っている入門的教科書に「ポルノの権利」なる章があって、以前から面食らっている。著者によると刑法175条「わいせつ物頒布罪」は憲法上の知る権利を侵害するので、憲法違反の疑いがあるとのことである。

 一口に「ポルノ」とはいっても、さしあたり、小説や漫画などの純然たるファンタジーの話と、アダルトビデオや写真などリアルな媒体とは区別すべきだろう。後者の場合、その制作の場面での女優となる女性への性暴力とか、リアルな「他者危害の」問題をも孕んでもいるように思う。この点で、リベラルな立場をとるフェミニストの人たちも、もっと怒ってもよさそうなものなのに、”APP研“と呼ばれるグループの人たちなどを除いて、(私の不勉強か児童ポルノを除き)そういう話はあまり聞いたことがない(被写体となる女性など本人の自己責任の問題と考えられているのだろうか)。

 かつて河合隼雄氏は売春は「魂に悪い」と言ったそうだが、ポルノ視聴もあるいは「魂に悪い」のかもしれない。そういう意味では、あるゆるポルノは憂慮さるべきものかもしれない(社会環境としての「共同善」を問題にする社会倫理学者ヨハネス・メスナーはポルノの広範な流通には批判的である)。しかし、ポルノ視聴の精神的悪影響について研究している心理学者の話などは、日本では聞いたことがない(研究している人がいてもよさそうなものなのに)。

ここで、「ポルノ(視聴)の権利」を考察するには、まずそもそも権利とは何かを考察せねばならないが、権利とはある人に、その人が自らの個別的な「本性」を実現するために帰属する諸権限の総体と、自然法論の立場からはさしあたり定義できるだろう。それゆえ、その人の真の自己実現のためにはならないことは権利とならないはずである。

 ポルノの問題を考えるならば、人間本性の内にある「性の目的」について考えねばならない。この問題は、同性婚の問題を考える際にも考えねばならない厄介な問題だと思うが、理性的存在である人間の性には創造的な(ある意味での)「遊び」の要素があるものの、その本質的な目的が生殖にある点は、(イデオロギーではなく)人間本性の構造に由来する事実であると思う。そこから言うならば、法的にみてポルノ視聴の「権利」はどうしても導出できないし、若者や独身者の視聴について一定の寛容が認められるにすぎないだろう。

 加えて、ポルノ制作がアンダーグラウンドな産業になっていることや、先の制作の場面での性暴力の問題など含めて考えると、(小説や漫画などではないリアルな)ポルノ制作や流通についてはより厳しい見方をせざるを得ないのではないだろうか。チャタレイ事件最高裁判決でいわれた、社会のモラルに対する「臨床医的役割」を、今日、誰が果たしうるだろうか。

人間の成熟の「枠組み」について


 今日、人が成熟し、大人となるとはどういうことか、みえにくくなっているのではないか。「モラトリアム人間」という言葉が生まれて久しいが、問題は若者だけではなく、高齢者の問題でもあるように思う。近年、高齢者の暴力行為等の犯罪の増加が統計的に確認されているらしいが、その背後にある問題の一つは、あるいは私たちの「死の受容」の問題ではないかと思う。死を安らかに受容することが可能であるのは(それが可能であるとして)前提として、死についての肯定的信念がなければならないだろう。そして死についての肯定的信念をもつことが、人間の成熟の究極点となるのではなかろうか。

 もちろん、成人としては、両親より自立し、自ら生計を立て、(出家するのでないかぎり)結婚をし、子供を育て…といった事柄が、成熟の目標となるだろう。しかし、そうした成熟のいわば「枠組み」が今日では希薄になっているように思うし、またそうした成熟の目標へ向けて若者を手助けする社会的援助が貧困化しているように思う。加えて、人間の成熟の「枠組み」を現実化する社会制度が、いわゆる「雇用の流動化」などにより壊れたと思う。それらの背後にあるのは、やはり「自由主義的個人主義」ではなかろうか。

 「自由主義的個人主義」は本来、政治と法と経済の公共的な枠組みについての話のはずであるが、実際には漠然とした相対主義的なムードとも相まって、一つの世界観となってこの国を覆っているように思う。そこでは、寛容と他者の自己愛の尊重、産業社会を維持するための(今道友信氏のいう)「定点性」(punctuality)以外の徳目は不分明化してゆく傾向があると言えるだろう。

 翻って、「徳目」とは”virtue”という言葉の語源からも言えるように、善へと向かってゆく「力」のことである。したがって、一定の「善き生」の構想なしには「徳目」については語りえない。今日、人が「善く生きる」とはどういうことか見えにくくなっていることが、人間の成熟の目標を見えにくくしているし、人が持つべき「徳目」を見えにくくしているように思う。

 そこから若者のみならず、若者を教育すべき大人にも「モラトリアム化」が生じているのではないだろうか(それはもはやあまり意識されていないし、私も含めて皆がもがいている事態だと思う)。つまり人間の「善き生」や成熟の目標についての一定の共通了解がないという事態が、そうした事態や、ひいては教育の機能不全を引き起こしているように思う。

 キリスト教の世界では、その点、人生の究極目標や、「善き生」について倣うべき「モデル」がはっきりしているが、カトリック文化に伝統的にあった「聖人伝」が最近ほとんど出版されていないのは、気がかりである。また、上にのべたような社会状況の影響をこうむってもいると思う。

 この状況を改善するためには、まずなによりも、人間が成熟するための支えとなる社会的な制度(その中心はやはり雇用をまともなものにすることだろう)を新たな仕方で補充する必要があろうし、人間の成熟とは何であるかについての教育も必要であろう。その意味では、アルフォンス・デーケン師の唱える「死への準備教育」は大きな意味を持つであろうし、加えて若者のために「家庭と職業生活への準備教育」とでも言うべきものが必要でもあるように思う。そして、それらの前提として、人生の目的や人間の成熟についての、様々の立場からの公共的な議論が必要であろう。

「尊厳死」法制化の背後に見え隠れするもの


 最近、「尊厳死法制化を考える議員連盟」による、国会での「尊厳死法」立法の動きが現実化しつつあるという。この動きの背後にあるのは、やはり、今後ますます増大しうる高齢者の医療費の増加の問題であろう。これまで、裏では患者家族と医療従事者の話し合いにより、人工呼吸器停止などの「尊厳死」は基本的には行われて来たとも言われており、数年前の射水市民病院事件(医師の人工呼吸器停止行為に対して警察の捜査が入ったが不起訴)がきっかけになったとはいえ、改めて「尊厳死法」を立法しようという動きにはそうした意向がどうしても見え隠れする気がする。

 日本における「尊厳死」運動のパイオニアであるのが、「日本安楽死協会」(現「日本尊厳死協会」)の創設者である太田典礼医師であることは知られている。同氏は戦後の優生保護法立法による中絶合法化運動に、加藤シズエ氏らと共に関わったことでも知られ、いわば《バースコントロール》と《デスコントロール》を共に法制化しようとしたと言えるだろう(同氏に関しては大谷いづみ氏による詳細な研究が存在するようである)。そして、ここで前提になっている発想は「生命は自分のものである」という発想であろう。

 しかし、生命は自分のものであろうか。生命の自己所有ということが貫徹しうるならば、そもそも人間は自らの意に反して死ぬことはないであろう。自分が意志する限り、いつまでも生きることが出来るであろう。しかし人間が死なねばならないのは、人間の生命というか、人間の存在そのものが、自らを根拠とする存在(ens a se)ではなく、生命を与える者、存在を与える者により、生命を与えられ、存在させられているからではないか。その意味で、人間の生命と存在は自らの内に究極の根拠を持たず、人間は「生かされて生きている」にすぎないだろう。

 人間の生命と存在の真の所有主であり、与え主である者を「神」と呼ぶならば、「延命治療」の中止という「尊厳死」は、生命が自分のものであるからではなく、生命は最終的に自分のものではなくて、神より与えられたものに過ぎないから、認められることになろう。1970年代のアメリカのカレン・クィンラン事件でも両親はキリスト信者としての心情から「尊厳死」を希望したという。

 しかし、「尊厳死法」立法の動きには、医療費問題という功利的動機が見え隠れするし、いわゆる「楔論法」「すべり坂(論法)」と言われるような、「尊厳死法」立法によって予期せざる社会の生命観への影響の可能性を考えると、やはり単独の「尊厳死法」は立法すべきではないと思う。刑法上の同意殺人罪の条文を手直しするとか、刑法のマイナーチェンジないし解釈と、延命治療中止のための(医療従事者と家族との話し合いのための枠組みの策定も含めた)国などの厳格なガイドラインの策定で対応するのが、正しい方策ではなかろうか。

 かつて、ナチ時代の安楽死法案では本人の「自己決定権」がうたわれていたが、それが政治的な強制的安楽死へと転化していったことが知られている。死をめぐる法制化の議論には慎重になるべきだと思う(臓器移植法に関しては小松美彦氏の著作に共感する点が多い)。

  

2014年1月3日金曜日

新しい憲法の話


法哲学上の自然法論の立場から、日本国憲法について考えていることを簡潔に記したい。詳しく論ずれば長くなるので、できるだけ要点だけに留めたい。

 まず、いわゆる「押し付け憲法論」に関して言えば、戦後初の国会である第90回帝国議会で、委員会レベルで日本側独自の条文の追加や修正(25条や9条の「芦田修正」)があったと言え、日本国憲法は連合国軍の占領下、GHQの主導で作られた憲法であるという事実は否定できないだろう。それゆえ、私は、政治的可能性をひとまず度外視して「筋論」としていうならば、サンフランシスコ講和条約を結んで「一応」占領体制が終結したのち、自衛隊法や防衛庁設置法を立法して再軍備する以前に、アメリカの影響を廃して、日本人自らの起草になる(とはいっても旧日本国憲法との法的連続性は尊重せねばならないが)平和憲法を制定しておくのが正しかったのではないかと思う。その場合、「平和憲法」の内実がいかなるものとなるのか、国民的議論をしたうえで、再軍備するという政治的選択と整合するものでなければならなかっただろう。

 また、戦後一度も憲法がいじられなかった背景には、次に述べる学問の世界の問題だけではなく、日米関係において、日本国憲法がある意味で米国の日本に対する政治的コントロールの前提条件となっていたという面も否定できないように思う(とはいっても国粋主義的な改憲案には全く組しないし、最近公表された自民党の改憲草案にも多くの問題点を感じるが、さしあたり割愛する)。

ところで、いわゆる「論憲」なる観念が唱えられて久しい。しかし、憲法を論ずる上で、現状の最大の問題は、憲法学や法哲学の分野で、憲法がいかにあるべきか、議論がなされていない点であるように思う。憲法がいかにあるべきかを論ずることは、「法政策」を論じることであり、強い仕方で、法が実現すべき価値について考察することになり、憲法学が前提する価値相対主義という前提からは、憲法学の課題として認められないことになるだろうし、また法哲学の分野で主流の英米リベラリズムの立場からも、自由主義的個人主義的な米国製の現憲法は自らに親和的なものであり、変更の必要を認めないということだろうか。

 加えて、かつて山本七平氏が「新憲法修身」と揶揄したように、日本国憲法が公民科の憲法教育などを通じて、戦後の日本人の精神的支柱になってきたという事情もあり、良心的なまじめな人ほど、改憲について冷静に考えるのが難しくなっているかもしれない。

 翻って、「洗脳」されている状態というものを考えてみると、それはまさしく自らが立っている前提について反省がなく、自らは無色透明の中立的で「客観的」な前提に立っていると思い込んでいることであろう。そういう意味では、かつて水波朗・九州大学教授が「日本人は一億一心的に新カント主義の価値相対主義的イデオロギーを無反省に生きている」と主張していたことは傾聴に値すると思う。

 実は、無色透明の中立的な前提に立つということは、人間には不可能である。小生は自然法論という前提に立ち、人間の本性や事物の本性といった世界の本質的な客観的構造から倫理や法の規範について考えうるという立場に自覚的に立っている。その立場から、今後の日本国憲法のいわばあるべき姿について、いくつか私見を試論的に述べてみたい。

 まず、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という「三つの基本原理」は維持するとして、加えて社会的中間層を厚くする経済政策を行うべきことを憲法上の基本原理とするべきでないだろうか。その為に社会国家ないし福祉国家原理(これらの概念には相応の歴史があるので別の概念を用いるべきかもしれないが)を第四の基本原理にすべきと思う。

加えて、環境問題や生命技術の問題に鑑みて、将来世代に向けて持続可能な国家を成立させる「責任国家原理」とでもいうべきものを第五の基本原理にすべきでなかろうか。そこには原発稼働やその他の化石燃料の使用が将来世代にもたらしうる帰結への責任、生殖補助医療や遺伝子操作の帰結が将来世代に及ぼしうる影響への責任といったことが入ってくるだろう。

 基本原理に加えて、個別的な条文にもいろいろと注文が付きそうである。9条に関して言うならば、きわめて限定的な専守防衛のための「自衛隊」を最小限度の実力として所持できるように条文を改めるべきであろうし(日本の領土内での国民等の保護のための自衛や海外での邦人保護以上を意図することになる集団的自衛権は認めるべきでないだろう―もっとも自衛隊による海外での「復興支援」は別だが)、憲法の本体部分に通常は「プログラム規定」(努力目標)的な条文を入れないと思うが、9条に関しては例外的に、93項として国際平和を希求する国と国民の義務について定めることなどをするべきだと思う。

  第3章「国民の権利と義務」全体に関して言うならば、日本も批准している国際人権規約など人権関係条約に合わせて改正するべきでなかろうか。

 他にも多くの論点があろうが、(故ホセ・ヨンパルト教授が『日本国憲法哲学』で述べていることだが)教育を行う権利の所在の規定や、3条や24条の「個人の尊重」「個人の尊厳」に代えて、例えばジャック・マリタンに従い、「人格の尊厳」ないし(国連憲章や世界人権宣言やドイツ基本法でも用いられている)「人間の尊厳」を哲学的に一貫した仕方で用いることが考えられないだろうか。また96条の改憲手続に関しては両院議員の過半数の賛成による発議という最近議論されている点はより慎重になるべきだと思う。また、(胎児や植物状態の患者を念頭において)各人の生命への権利を定めることも考えるべきではないだろうか。個人情報の保護や知る権利などについての規定も必要だろう。

 いずれにせよ、改憲問題について、政治は改憲を追及しても、政治の提示する改憲案は学問の目から見ても、国民の立場から見ても、残念ながら受容しがたく信頼できないという点が、日本国憲法をめぐる現状を生み出しているように思う。そこで、本来は、法哲学や憲法学が、憲法のあるべき姿をまず提示し、その上で政治的なプロセスの中でそれを実現することを考えねばならないのではないか。

確かに、一人の学者がルソーの言う「一般意思」を体現する「立法者」になるのは難しいであろうが、学問の世界での公共的議論が世論をリードしながら、それを政治の世界に反映させてゆくことが必要であろうし、その為には、憲法学や法哲学が、立法を通じて実現すべき価値について合理的に考察する方策を発見せねばならないように思う。それはしかし、両分野でもはやタブー視されている自然法論を復権させることになるのではなかろうか。

 私はこの問題について未だ思考の途上にあるが、私のような駆け出しの無名の研究者でも違和感として感じているこうした事態を、大御所の先生方はいかにお考えか、興味のあることころである。

  最後に付け加えるならば、政治的・社会的に不安定な現状においては改憲作業はするべきでないと思う。「閉塞感」を打破するために改憲するなどは本末転倒であろう。より政治的的・社会的に安定した状態において、また学問の世界での議論の成熟や、国民の世論の成熟の後、初めて可能であるように思う。

言葉の政治





 近年、マスコミやアカデミズムの世界で、「子ども」「自死」「障がい」などの言葉が用いられている。これは言葉の政治的なイメージ操作であるのは間違いない。つまりそうした言葉で名指される人や事柄の持つネガティブなイメージを排除するために、言葉の喚起するイメージを変更するよう、新たな表記法が用いられるのであろう。こうしたことはすでに、かつて作家ジョージ・オーウェルが『1984年』で「ニュースピーク」(新語法)と呼んでいた。

 このことの意味は二つあろう。一つはそうした言葉で名指される当事者の人たちの自己愛を守るという意味である。自分がネガティブな存在ではないという自己愛を保持しようとする意向は、確かにそうした当事者の実際的苦境に鑑みても理解できよう。そうした観点で、そうしたカテゴリーに属する人たちの、またその人たちの利益を擁護しようとする団体(フェミニストや障害者団体、「自死」遺族などが当てはまろうが)が、政治的にそうした言葉をメディアを媒介に広めようとしているのかもしれない。

 しかし、翻って考えねばならないのは、「官僚制的個人主義」社会(A.マッキンタイア)とも呼ばれるこの社会で、社会を「統治」(政治学や法学の分野でこうした言葉が現代でも用いられること自体が奇異であるが)する側にとってそうした言葉がどういう意味を持つかということではないだろうか。すなわち、そうした社会の安定にとって社会的不満の爆発は避けねばならない事態である。ますます厳しくなるグローバル競争社会において、社会的不満の爆発を抑制するために、まずもって個人の自己愛の世界を尊重することがいくつかの仕方でなされているように思われる。

 携帯電話やインターネットのSNSなど自己愛的メディアがまずその役割を果たしているし、そうした世界での「ネット右翼」等のナショナリズムも実はそうした自己愛的な社会的不満の発露とも見ることが出来よう。加えて上にのべたような言葉の政治である。言葉の政治は、いわば当事者側の自己防衛のための政治的力の行使が、「統治」者側が社会的不安定要素を「官僚制的個人主義」社会の安定性の内に回収するために、巧みに利用されているとみることも出来るのではないだろうか。

 そこで見失われる可能性があるのは、「子供」「障害者」「自殺した人」の持つ、実際的苦境に、実際に十分に対応する社会的努力の不十分さということでないだろうか(加えてそうした立場にある人自身の受ける影響も考えうるが、それは当事者でない私からはさしあたり控えさせていただく)。

 

信仰と理性


 1998年に公布されたヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』は、キリスト教信仰の失われた近代西洋社会の、特に20世紀後半の「ポスト・モダン」と呼ばれる思想状況の人間理性のあり方の危殆化を問題にしている(キリスト教西洋とその影響を受けた近代日本以外の文脈の問題はここでは一先ず措くこととする)。

 この回勅の要点は、信仰を失った理性は、(哲学者ハーバーマスの言う)資本主義・産業社会の「シムテム」内の「道具的理性」と化し、理性の本来持つ「よき生」への問いの射程を失ってしまうという点にあるように思われる。平たく言えば、目先の経済的利益や、物的快楽追求と、その為に必要な経済・行政の機構以外のことを考えなくなるということであろう。それは同時に、「神」を見失うことである。

 キリスト教は、聖書の啓示を神の人に対するメッセージと受け取る。啓示に対する人間の自発的応答が、信仰という対神徳であると言えよう。それは、人が、三位一体の神の「至福直観」を、現世から来世に向けて、人生の究極目的として生きるために必要な、信仰、希望、愛という三つの対神徳の一つであった。

 しかし、こうした対神徳の世界は、西洋では啓蒙主義時代以来、批判にさらされて来た。日本における西洋近代文明の受容の問題は複雑であるのでここで問題にしないが、現代日本においても、「信仰」の成立が困難であることは確かであろう。

 だが、「信仰」のないところでは、理性も危機に陥るというのが、この『信仰と理性』回勅の主張である。ここで「信仰」とは、12世紀のアンセルムスの著名な標語「知解を求める信仰」(“fides quaerens intellectum”)を引用しつつ言うならば、神の使信であり、直ちに人間理性に理解しがたい聖書の使信を、あくまで神の使信と信じつつ、これを能うかぎり人間理性でもって探究するということであろう。それは哲学的・形而上学的探究であるのみならず、祈りと愛徳の生活としてのキリスト信者の生活を通じての探究であろう。

 近代西洋では、「弁神論」の失敗、現世主義、理性の自律化など相まって「信仰」への支持が薄れた。信仰なき哲学や、信仰なき科学が通例となり、またその裏返しとして、理性の能力を無視した信仰絶対化や宗教的原理主義が登場し、中世的な信仰を優位にみての信仰と理性の調和は破れた。キリスト教神学も、形而上学的な理性や祈りのエートスの希薄化した、ただ実証主義的な理性による神学へと陥る傾向があるようにも思われる。

 こうした流れの内で生じた「信仰」の喪失は、つまるところ理性の喪失に至り、人生の目的や意義、人間的成長のモデル、現実をリアルに感じる心、自分の頭で考える思考力をますます我々から奪っているのでないか。これが20世紀後半に登場した「ポスト・モダン」と呼ばれる状況であると、この回勅は述べていると言えよう。翻って今日、われわれが理性を再び回復するには、逆説的ではあるが、信仰が必要であることになる。理性が、その究極的な能力を発揮するために、自らを狭隘化し、喪失しないために。

「この時代を何に譬えたらよいだろうか」


 「ファシズム」という言葉は手垢にまみれた言葉であろう。今日、この言葉を聞いて連想するのは「左翼」の「お決まりのプロパガンダ」であるかもしれない。しかし、再び日本の私たちは、ある意味で「ファシズム」について憂慮しなければならない状態に、久しく以前から突入していると私は考えている。

 ただし、現代において問題になるのは、(さしあたりそう呼ぶならば)いわば「新ファシズム」である。それは、かつての旧ファシズムを裏返しにし、また旧ファシズムへの人々の恐怖の記憶を前提し、同時に「ファシズム」という言葉自体の陳腐化を前提にしている。

 「裏返し」とは、「新ファシズム」がまさしく「個人の自由」の尊重、「自己決定権」の尊重、個人の「自己愛」(小此木啓吾)の世界の尊重に立脚しているからである。それは全体主義に立脚した旧ファシズムが過去のものであるという、人々の意識を土壌としているとも言えよう。

 今日、西洋型先進国に生きる者は、個人の自由、自己決定権を最大限尊重する「自由主義的個人主義」の世界に生きていると考えられている。しかし、これはそうした社会の実態にかなっているだろうか。実は、「自由主義的個人主義」とは、社会のうちに漠然と広がり、また諸個人が主観的には自己と社会との関係をそのように理解しているところの「イデオロギー」ではないのか。

 アメリカの共同体主義の倫理学者アラスデア・マッキンタイアは著書『美徳なき時代』で、西洋型先進国が実は、その実態において「官僚制的個人主義」社会とも呼ぶべき管理社会であることを指摘している。それはグローバルな市場競争において、「経済成長」を社会の至上目的として追及するような社会であり、社会を管理する行政や企業経営の「エグゼクティブ」(P.ドラッカー)である「官僚的管理者」、メディアを通じて社会の消費のニーズをリードする(「セレブ」のごとき)「富裕な審美家」、この社会に不適応化している者の再適応化を(薬物療法や「認知行動療法」などを用いて)図る「心の専門家」が、社会を特徴づける典型的人物(キャラクター)であるような社会である。

 表向きのイデオロギーとしての、また個人の主観的現実としての「自由主義的個人主義」社会は、実態としては(いわば「下部構造」としては)そうした典型的人物が「成長」を牽引する中心点となっている「官僚的管理社会」であり、またそこでは「ビッグデータ」の利用など、IT技術が社会管理の道具となっているのではないか。

 つまり、今日の日本で、個人は主観的には自由であると思わさせられつつも、客観的には自由ではない。生産と消費の拡大による経済成長という社会の大目的の内に組み込まれている。このことは例えば、ネット依存や「スマホ歩き」の頻発という事態を見れば明らかではないだろうか(のみならず「茶髪」文化などの社会的流行の相当の部分が同様に経済社会によって作り出されたものでないか)。これらの社会病理は、「経済成長」という社会目的の負の産物であるが、「官僚制的個人主義」社会の存立を危うくさせる限りで社会病理として扱われるのである。

 そして、こうした「官僚制的個人主義」社会において支配する、「自由主義的個人主義」に並ぶもう一つのイデオロギーが「道徳的相対主義」である。「道徳的相対主義」は、倫理的な善悪を個人の主観的確信の問題とみて、「多様な価値観の尊重」を説き、客観的な倫理の存在を認めない。そこでは他者の「自己愛」の世界への「寛容」の徳が最大の徳目として強調される。そして同性婚や生命倫理の諸問題などにおいて、個人の主観的な選好を尊重すべしという結論を自明のものとしようとする。

 そもそも「道徳的相対主義」は道徳的真理に対する深刻な懐疑に基づき、そもそも道徳的真理に人が接しうる可能性やその方途について考察しない。それはまた、人生の意味や究極目的に対する深刻な懐疑を伴ってもいるだろう。

 しかし、日本のこの社会自体は、「官僚制的個人主義」社会として、「統治」する者が存在し、一定の社会目的に向けて管理されている。その為の手段が、法であり、「アーキテクチャ」(環境管理)であろう。法を立法するとは、すなわち一定の実現すべき価値(共同善)を法を通じて現実化することを目指すことに他ならず、そこでは実現されるべき一定の価値についての判断がなされているはずである。しかし、この点は現代日本の法学や政治学の世界において基本的に隠蔽され、触れられないタブーと化していないだろうか。

 すなわち、日本国という政治的共同体・法共同体の内にある者は、そうした立法や政治を通じて執行される、行政と経済の官僚制度に由来する公共的な価値判断から逃れられないはずである。ゆえに、公共的には実は「道徳的相対主義」は成立していない。「リベラル」な法や政治のモデルに立脚して立法や政治を行うにしても、その場合も、「リベラル」な価値観を公共的に強制することは避けえないだろう。

 そうであるならば、結局、「道徳的相対主義」は個人の主観的な自己愛の尊重ということに帰着するであろう。経済情勢の困難や雇用の不安定化にもかかわらず、アンケート調査によると主観的な幸福度が高いという結果が出るのは、こうした社会でも個人の主観的自己愛だけは尊重されているからであろう。

 当初の問題提起に戻ると、確かに「ファシズム」という言葉は今日もはや人心に訴えないであろう。それゆえ、いま起きている事態を呼ぶ、新たな言葉を考えねばならない。しかしさしあたり、いま起きている事態を「新ファシズム」と呼んだのは、旧ファシズムにも共通するかもしれない、人間の存在様態の質料化という存在論的事態が進行しているように思われるからである。それは言いかえれば、人間の「魂」のあり方の危殆化である。