1998年に公布されたヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』は、キリスト教信仰の失われた近代西洋社会の、特に20世紀後半の「ポスト・モダン」と呼ばれる思想状況の人間理性のあり方の危殆化を問題にしている(キリスト教西洋とその影響を受けた近代日本以外の文脈の問題はここでは一先ず措くこととする)。
この回勅の要点は、信仰を失った理性は、(哲学者ハーバーマスの言う)資本主義・産業社会の「シムテム」内の「道具的理性」と化し、理性の本来持つ「よき生」への問いの射程を失ってしまうという点にあるように思われる。平たく言えば、目先の経済的利益や、物的快楽追求と、その為に必要な経済・行政の機構以外のことを考えなくなるということであろう。それは同時に、「神」を見失うことである。
キリスト教は、聖書の啓示を神の人に対するメッセージと受け取る。啓示に対する人間の自発的応答が、信仰という対神徳であると言えよう。それは、人が、三位一体の神の「至福直観」を、現世から来世に向けて、人生の究極目的として生きるために必要な、信仰、希望、愛という三つの対神徳の一つであった。
しかし、こうした対神徳の世界は、西洋では啓蒙主義時代以来、批判にさらされて来た。日本における西洋近代文明の受容の問題は複雑であるのでここで問題にしないが、現代日本においても、「信仰」の成立が困難であることは確かであろう。
だが、「信仰」のないところでは、理性も危機に陥るというのが、この『信仰と理性』回勅の主張である。ここで「信仰」とは、12世紀のアンセルムスの著名な標語「知解を求める信仰」(“fides quaerens
intellectum”)を引用しつつ言うならば、神の使信であり、直ちに人間理性に理解しがたい聖書の使信を、あくまで神の使信と信じつつ、これを能うかぎり人間理性でもって探究するということであろう。それは哲学的・形而上学的探究であるのみならず、祈りと愛徳の生活としてのキリスト信者の生活を通じての探究であろう。
近代西洋では、「弁神論」の失敗、現世主義、理性の自律化など相まって「信仰」への支持が薄れた。信仰なき哲学や、信仰なき科学が通例となり、またその裏返しとして、理性の能力を無視した信仰絶対化や宗教的原理主義が登場し、中世的な信仰を優位にみての信仰と理性の調和は破れた。キリスト教神学も、形而上学的な理性や祈りのエートスの希薄化した、ただ実証主義的な理性による神学へと陥る傾向があるようにも思われる。
こうした流れの内で生じた「信仰」の喪失は、つまるところ理性の喪失に至り、人生の目的や意義、人間的成長のモデル、現実をリアルに感じる心、自分の頭で考える思考力をますます我々から奪っているのでないか。これが20世紀後半に登場した「ポスト・モダン」と呼ばれる状況であると、この回勅は述べていると言えよう。翻って今日、われわれが理性を再び回復するには、逆説的ではあるが、信仰が必要であることになる。理性が、その究極的な能力を発揮するために、自らを狭隘化し、喪失しないために。
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