2014年1月3日金曜日

「この時代を何に譬えたらよいだろうか」


 「ファシズム」という言葉は手垢にまみれた言葉であろう。今日、この言葉を聞いて連想するのは「左翼」の「お決まりのプロパガンダ」であるかもしれない。しかし、再び日本の私たちは、ある意味で「ファシズム」について憂慮しなければならない状態に、久しく以前から突入していると私は考えている。

 ただし、現代において問題になるのは、(さしあたりそう呼ぶならば)いわば「新ファシズム」である。それは、かつての旧ファシズムを裏返しにし、また旧ファシズムへの人々の恐怖の記憶を前提し、同時に「ファシズム」という言葉自体の陳腐化を前提にしている。

 「裏返し」とは、「新ファシズム」がまさしく「個人の自由」の尊重、「自己決定権」の尊重、個人の「自己愛」(小此木啓吾)の世界の尊重に立脚しているからである。それは全体主義に立脚した旧ファシズムが過去のものであるという、人々の意識を土壌としているとも言えよう。

 今日、西洋型先進国に生きる者は、個人の自由、自己決定権を最大限尊重する「自由主義的個人主義」の世界に生きていると考えられている。しかし、これはそうした社会の実態にかなっているだろうか。実は、「自由主義的個人主義」とは、社会のうちに漠然と広がり、また諸個人が主観的には自己と社会との関係をそのように理解しているところの「イデオロギー」ではないのか。

 アメリカの共同体主義の倫理学者アラスデア・マッキンタイアは著書『美徳なき時代』で、西洋型先進国が実は、その実態において「官僚制的個人主義」社会とも呼ぶべき管理社会であることを指摘している。それはグローバルな市場競争において、「経済成長」を社会の至上目的として追及するような社会であり、社会を管理する行政や企業経営の「エグゼクティブ」(P.ドラッカー)である「官僚的管理者」、メディアを通じて社会の消費のニーズをリードする(「セレブ」のごとき)「富裕な審美家」、この社会に不適応化している者の再適応化を(薬物療法や「認知行動療法」などを用いて)図る「心の専門家」が、社会を特徴づける典型的人物(キャラクター)であるような社会である。

 表向きのイデオロギーとしての、また個人の主観的現実としての「自由主義的個人主義」社会は、実態としては(いわば「下部構造」としては)そうした典型的人物が「成長」を牽引する中心点となっている「官僚的管理社会」であり、またそこでは「ビッグデータ」の利用など、IT技術が社会管理の道具となっているのではないか。

 つまり、今日の日本で、個人は主観的には自由であると思わさせられつつも、客観的には自由ではない。生産と消費の拡大による経済成長という社会の大目的の内に組み込まれている。このことは例えば、ネット依存や「スマホ歩き」の頻発という事態を見れば明らかではないだろうか(のみならず「茶髪」文化などの社会的流行の相当の部分が同様に経済社会によって作り出されたものでないか)。これらの社会病理は、「経済成長」という社会目的の負の産物であるが、「官僚制的個人主義」社会の存立を危うくさせる限りで社会病理として扱われるのである。

 そして、こうした「官僚制的個人主義」社会において支配する、「自由主義的個人主義」に並ぶもう一つのイデオロギーが「道徳的相対主義」である。「道徳的相対主義」は、倫理的な善悪を個人の主観的確信の問題とみて、「多様な価値観の尊重」を説き、客観的な倫理の存在を認めない。そこでは他者の「自己愛」の世界への「寛容」の徳が最大の徳目として強調される。そして同性婚や生命倫理の諸問題などにおいて、個人の主観的な選好を尊重すべしという結論を自明のものとしようとする。

 そもそも「道徳的相対主義」は道徳的真理に対する深刻な懐疑に基づき、そもそも道徳的真理に人が接しうる可能性やその方途について考察しない。それはまた、人生の意味や究極目的に対する深刻な懐疑を伴ってもいるだろう。

 しかし、日本のこの社会自体は、「官僚制的個人主義」社会として、「統治」する者が存在し、一定の社会目的に向けて管理されている。その為の手段が、法であり、「アーキテクチャ」(環境管理)であろう。法を立法するとは、すなわち一定の実現すべき価値(共同善)を法を通じて現実化することを目指すことに他ならず、そこでは実現されるべき一定の価値についての判断がなされているはずである。しかし、この点は現代日本の法学や政治学の世界において基本的に隠蔽され、触れられないタブーと化していないだろうか。

 すなわち、日本国という政治的共同体・法共同体の内にある者は、そうした立法や政治を通じて執行される、行政と経済の官僚制度に由来する公共的な価値判断から逃れられないはずである。ゆえに、公共的には実は「道徳的相対主義」は成立していない。「リベラル」な法や政治のモデルに立脚して立法や政治を行うにしても、その場合も、「リベラル」な価値観を公共的に強制することは避けえないだろう。

 そうであるならば、結局、「道徳的相対主義」は個人の主観的な自己愛の尊重ということに帰着するであろう。経済情勢の困難や雇用の不安定化にもかかわらず、アンケート調査によると主観的な幸福度が高いという結果が出るのは、こうした社会でも個人の主観的自己愛だけは尊重されているからであろう。

 当初の問題提起に戻ると、確かに「ファシズム」という言葉は今日もはや人心に訴えないであろう。それゆえ、いま起きている事態を呼ぶ、新たな言葉を考えねばならない。しかしさしあたり、いま起きている事態を「新ファシズム」と呼んだのは、旧ファシズムにも共通するかもしれない、人間の存在様態の質料化という存在論的事態が進行しているように思われるからである。それは言いかえれば、人間の「魂」のあり方の危殆化である。

0 件のコメント:

コメントを投稿