2014年1月3日金曜日

新しい憲法の話


法哲学上の自然法論の立場から、日本国憲法について考えていることを簡潔に記したい。詳しく論ずれば長くなるので、できるだけ要点だけに留めたい。

 まず、いわゆる「押し付け憲法論」に関して言えば、戦後初の国会である第90回帝国議会で、委員会レベルで日本側独自の条文の追加や修正(25条や9条の「芦田修正」)があったと言え、日本国憲法は連合国軍の占領下、GHQの主導で作られた憲法であるという事実は否定できないだろう。それゆえ、私は、政治的可能性をひとまず度外視して「筋論」としていうならば、サンフランシスコ講和条約を結んで「一応」占領体制が終結したのち、自衛隊法や防衛庁設置法を立法して再軍備する以前に、アメリカの影響を廃して、日本人自らの起草になる(とはいっても旧日本国憲法との法的連続性は尊重せねばならないが)平和憲法を制定しておくのが正しかったのではないかと思う。その場合、「平和憲法」の内実がいかなるものとなるのか、国民的議論をしたうえで、再軍備するという政治的選択と整合するものでなければならなかっただろう。

 また、戦後一度も憲法がいじられなかった背景には、次に述べる学問の世界の問題だけではなく、日米関係において、日本国憲法がある意味で米国の日本に対する政治的コントロールの前提条件となっていたという面も否定できないように思う(とはいっても国粋主義的な改憲案には全く組しないし、最近公表された自民党の改憲草案にも多くの問題点を感じるが、さしあたり割愛する)。

ところで、いわゆる「論憲」なる観念が唱えられて久しい。しかし、憲法を論ずる上で、現状の最大の問題は、憲法学や法哲学の分野で、憲法がいかにあるべきか、議論がなされていない点であるように思う。憲法がいかにあるべきかを論ずることは、「法政策」を論じることであり、強い仕方で、法が実現すべき価値について考察することになり、憲法学が前提する価値相対主義という前提からは、憲法学の課題として認められないことになるだろうし、また法哲学の分野で主流の英米リベラリズムの立場からも、自由主義的個人主義的な米国製の現憲法は自らに親和的なものであり、変更の必要を認めないということだろうか。

 加えて、かつて山本七平氏が「新憲法修身」と揶揄したように、日本国憲法が公民科の憲法教育などを通じて、戦後の日本人の精神的支柱になってきたという事情もあり、良心的なまじめな人ほど、改憲について冷静に考えるのが難しくなっているかもしれない。

 翻って、「洗脳」されている状態というものを考えてみると、それはまさしく自らが立っている前提について反省がなく、自らは無色透明の中立的で「客観的」な前提に立っていると思い込んでいることであろう。そういう意味では、かつて水波朗・九州大学教授が「日本人は一億一心的に新カント主義の価値相対主義的イデオロギーを無反省に生きている」と主張していたことは傾聴に値すると思う。

 実は、無色透明の中立的な前提に立つということは、人間には不可能である。小生は自然法論という前提に立ち、人間の本性や事物の本性といった世界の本質的な客観的構造から倫理や法の規範について考えうるという立場に自覚的に立っている。その立場から、今後の日本国憲法のいわばあるべき姿について、いくつか私見を試論的に述べてみたい。

 まず、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という「三つの基本原理」は維持するとして、加えて社会的中間層を厚くする経済政策を行うべきことを憲法上の基本原理とするべきでないだろうか。その為に社会国家ないし福祉国家原理(これらの概念には相応の歴史があるので別の概念を用いるべきかもしれないが)を第四の基本原理にすべきと思う。

加えて、環境問題や生命技術の問題に鑑みて、将来世代に向けて持続可能な国家を成立させる「責任国家原理」とでもいうべきものを第五の基本原理にすべきでなかろうか。そこには原発稼働やその他の化石燃料の使用が将来世代にもたらしうる帰結への責任、生殖補助医療や遺伝子操作の帰結が将来世代に及ぼしうる影響への責任といったことが入ってくるだろう。

 基本原理に加えて、個別的な条文にもいろいろと注文が付きそうである。9条に関して言うならば、きわめて限定的な専守防衛のための「自衛隊」を最小限度の実力として所持できるように条文を改めるべきであろうし(日本の領土内での国民等の保護のための自衛や海外での邦人保護以上を意図することになる集団的自衛権は認めるべきでないだろう―もっとも自衛隊による海外での「復興支援」は別だが)、憲法の本体部分に通常は「プログラム規定」(努力目標)的な条文を入れないと思うが、9条に関しては例外的に、93項として国際平和を希求する国と国民の義務について定めることなどをするべきだと思う。

  第3章「国民の権利と義務」全体に関して言うならば、日本も批准している国際人権規約など人権関係条約に合わせて改正するべきでなかろうか。

 他にも多くの論点があろうが、(故ホセ・ヨンパルト教授が『日本国憲法哲学』で述べていることだが)教育を行う権利の所在の規定や、3条や24条の「個人の尊重」「個人の尊厳」に代えて、例えばジャック・マリタンに従い、「人格の尊厳」ないし(国連憲章や世界人権宣言やドイツ基本法でも用いられている)「人間の尊厳」を哲学的に一貫した仕方で用いることが考えられないだろうか。また96条の改憲手続に関しては両院議員の過半数の賛成による発議という最近議論されている点はより慎重になるべきだと思う。また、(胎児や植物状態の患者を念頭において)各人の生命への権利を定めることも考えるべきではないだろうか。個人情報の保護や知る権利などについての規定も必要だろう。

 いずれにせよ、改憲問題について、政治は改憲を追及しても、政治の提示する改憲案は学問の目から見ても、国民の立場から見ても、残念ながら受容しがたく信頼できないという点が、日本国憲法をめぐる現状を生み出しているように思う。そこで、本来は、法哲学や憲法学が、憲法のあるべき姿をまず提示し、その上で政治的なプロセスの中でそれを実現することを考えねばならないのではないか。

確かに、一人の学者がルソーの言う「一般意思」を体現する「立法者」になるのは難しいであろうが、学問の世界での公共的議論が世論をリードしながら、それを政治の世界に反映させてゆくことが必要であろうし、その為には、憲法学や法哲学が、立法を通じて実現すべき価値について合理的に考察する方策を発見せねばならないように思う。それはしかし、両分野でもはやタブー視されている自然法論を復権させることになるのではなかろうか。

 私はこの問題について未だ思考の途上にあるが、私のような駆け出しの無名の研究者でも違和感として感じているこうした事態を、大御所の先生方はいかにお考えか、興味のあることころである。

  最後に付け加えるならば、政治的・社会的に不安定な現状においては改憲作業はするべきでないと思う。「閉塞感」を打破するために改憲するなどは本末転倒であろう。より政治的的・社会的に安定した状態において、また学問の世界での議論の成熟や、国民の世論の成熟の後、初めて可能であるように思う。

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