近年、マスコミやアカデミズムの世界で、「子ども」「自死」「障がい」などの言葉が用いられている。これは言葉の政治的なイメージ操作であるのは間違いない。つまりそうした言葉で名指される人や事柄の持つネガティブなイメージを排除するために、言葉の喚起するイメージを変更するよう、新たな表記法が用いられるのであろう。こうしたことはすでに、かつて作家ジョージ・オーウェルが『1984年』で「ニュースピーク」(新語法)と呼んでいた。
このことの意味は二つあろう。一つはそうした言葉で名指される当事者の人たちの自己愛を守るという意味である。自分がネガティブな存在ではないという自己愛を保持しようとする意向は、確かにそうした当事者の実際的苦境に鑑みても理解できよう。そうした観点で、そうしたカテゴリーに属する人たちの、またその人たちの利益を擁護しようとする団体(フェミニストや障害者団体、「自死」遺族などが当てはまろうが)が、政治的にそうした言葉をメディアを媒介に広めようとしているのかもしれない。
しかし、翻って考えねばならないのは、「官僚制的個人主義」社会(A.マッキンタイア)とも呼ばれるこの社会で、社会を「統治」(政治学や法学の分野でこうした言葉が現代でも用いられること自体が奇異であるが)する側にとってそうした言葉がどういう意味を持つかということではないだろうか。すなわち、そうした社会の安定にとって社会的不満の爆発は避けねばならない事態である。ますます厳しくなるグローバル競争社会において、社会的不満の爆発を抑制するために、まずもって個人の自己愛の世界を尊重することがいくつかの仕方でなされているように思われる。
携帯電話やインターネットのSNSなど自己愛的メディアがまずその役割を果たしているし、そうした世界での「ネット右翼」等のナショナリズムも実はそうした自己愛的な社会的不満の発露とも見ることが出来よう。加えて上にのべたような言葉の政治である。言葉の政治は、いわば当事者側の自己防衛のための政治的力の行使が、「統治」者側が社会的不安定要素を「官僚制的個人主義」社会の安定性の内に回収するために、巧みに利用されているとみることも出来るのではないだろうか。
そこで見失われる可能性があるのは、「子供」「障害者」「自殺した人」の持つ、実際的苦境に、実際に十分に対応する社会的努力の不十分さということでないだろうか(加えてそうした立場にある人自身の受ける影響も考えうるが、それは当事者でない私からはさしあたり控えさせていただく)。
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