2014年1月4日土曜日

人間の成熟の「枠組み」について


 今日、人が成熟し、大人となるとはどういうことか、みえにくくなっているのではないか。「モラトリアム人間」という言葉が生まれて久しいが、問題は若者だけではなく、高齢者の問題でもあるように思う。近年、高齢者の暴力行為等の犯罪の増加が統計的に確認されているらしいが、その背後にある問題の一つは、あるいは私たちの「死の受容」の問題ではないかと思う。死を安らかに受容することが可能であるのは(それが可能であるとして)前提として、死についての肯定的信念がなければならないだろう。そして死についての肯定的信念をもつことが、人間の成熟の究極点となるのではなかろうか。

 もちろん、成人としては、両親より自立し、自ら生計を立て、(出家するのでないかぎり)結婚をし、子供を育て…といった事柄が、成熟の目標となるだろう。しかし、そうした成熟のいわば「枠組み」が今日では希薄になっているように思うし、またそうした成熟の目標へ向けて若者を手助けする社会的援助が貧困化しているように思う。加えて、人間の成熟の「枠組み」を現実化する社会制度が、いわゆる「雇用の流動化」などにより壊れたと思う。それらの背後にあるのは、やはり「自由主義的個人主義」ではなかろうか。

 「自由主義的個人主義」は本来、政治と法と経済の公共的な枠組みについての話のはずであるが、実際には漠然とした相対主義的なムードとも相まって、一つの世界観となってこの国を覆っているように思う。そこでは、寛容と他者の自己愛の尊重、産業社会を維持するための(今道友信氏のいう)「定点性」(punctuality)以外の徳目は不分明化してゆく傾向があると言えるだろう。

 翻って、「徳目」とは”virtue”という言葉の語源からも言えるように、善へと向かってゆく「力」のことである。したがって、一定の「善き生」の構想なしには「徳目」については語りえない。今日、人が「善く生きる」とはどういうことか見えにくくなっていることが、人間の成熟の目標を見えにくくしているし、人が持つべき「徳目」を見えにくくしているように思う。

 そこから若者のみならず、若者を教育すべき大人にも「モラトリアム化」が生じているのではないだろうか(それはもはやあまり意識されていないし、私も含めて皆がもがいている事態だと思う)。つまり人間の「善き生」や成熟の目標についての一定の共通了解がないという事態が、そうした事態や、ひいては教育の機能不全を引き起こしているように思う。

 キリスト教の世界では、その点、人生の究極目標や、「善き生」について倣うべき「モデル」がはっきりしているが、カトリック文化に伝統的にあった「聖人伝」が最近ほとんど出版されていないのは、気がかりである。また、上にのべたような社会状況の影響をこうむってもいると思う。

 この状況を改善するためには、まずなによりも、人間が成熟するための支えとなる社会的な制度(その中心はやはり雇用をまともなものにすることだろう)を新たな仕方で補充する必要があろうし、人間の成熟とは何であるかについての教育も必要であろう。その意味では、アルフォンス・デーケン師の唱える「死への準備教育」は大きな意味を持つであろうし、加えて若者のために「家庭と職業生活への準備教育」とでも言うべきものが必要でもあるように思う。そして、それらの前提として、人生の目的や人間の成熟についての、様々の立場からの公共的な議論が必要であろう。

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