2014年1月4日土曜日

「尊厳死」法制化の背後に見え隠れするもの


 最近、「尊厳死法制化を考える議員連盟」による、国会での「尊厳死法」立法の動きが現実化しつつあるという。この動きの背後にあるのは、やはり、今後ますます増大しうる高齢者の医療費の増加の問題であろう。これまで、裏では患者家族と医療従事者の話し合いにより、人工呼吸器停止などの「尊厳死」は基本的には行われて来たとも言われており、数年前の射水市民病院事件(医師の人工呼吸器停止行為に対して警察の捜査が入ったが不起訴)がきっかけになったとはいえ、改めて「尊厳死法」を立法しようという動きにはそうした意向がどうしても見え隠れする気がする。

 日本における「尊厳死」運動のパイオニアであるのが、「日本安楽死協会」(現「日本尊厳死協会」)の創設者である太田典礼医師であることは知られている。同氏は戦後の優生保護法立法による中絶合法化運動に、加藤シズエ氏らと共に関わったことでも知られ、いわば《バースコントロール》と《デスコントロール》を共に法制化しようとしたと言えるだろう(同氏に関しては大谷いづみ氏による詳細な研究が存在するようである)。そして、ここで前提になっている発想は「生命は自分のものである」という発想であろう。

 しかし、生命は自分のものであろうか。生命の自己所有ということが貫徹しうるならば、そもそも人間は自らの意に反して死ぬことはないであろう。自分が意志する限り、いつまでも生きることが出来るであろう。しかし人間が死なねばならないのは、人間の生命というか、人間の存在そのものが、自らを根拠とする存在(ens a se)ではなく、生命を与える者、存在を与える者により、生命を与えられ、存在させられているからではないか。その意味で、人間の生命と存在は自らの内に究極の根拠を持たず、人間は「生かされて生きている」にすぎないだろう。

 人間の生命と存在の真の所有主であり、与え主である者を「神」と呼ぶならば、「延命治療」の中止という「尊厳死」は、生命が自分のものであるからではなく、生命は最終的に自分のものではなくて、神より与えられたものに過ぎないから、認められることになろう。1970年代のアメリカのカレン・クィンラン事件でも両親はキリスト信者としての心情から「尊厳死」を希望したという。

 しかし、「尊厳死法」立法の動きには、医療費問題という功利的動機が見え隠れするし、いわゆる「楔論法」「すべり坂(論法)」と言われるような、「尊厳死法」立法によって予期せざる社会の生命観への影響の可能性を考えると、やはり単独の「尊厳死法」は立法すべきではないと思う。刑法上の同意殺人罪の条文を手直しするとか、刑法のマイナーチェンジないし解釈と、延命治療中止のための(医療従事者と家族との話し合いのための枠組みの策定も含めた)国などの厳格なガイドラインの策定で対応するのが、正しい方策ではなかろうか。

 かつて、ナチ時代の安楽死法案では本人の「自己決定権」がうたわれていたが、それが政治的な強制的安楽死へと転化していったことが知られている。死をめぐる法制化の議論には慎重になるべきだと思う(臓器移植法に関しては小松美彦氏の著作に共感する点が多い)。

  

0 件のコメント:

コメントを投稿